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メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

円地文子『食卓のない家』と沢木耕太郎『テロルの決算』、そして「加害者家族の罪と罰」について

本のはなし

先週、続けざまに読んだ2冊の本が驚くほど似通っていた。

1冊目は円地文子『食卓のない家』。

食卓のない家(新潮文庫)

食卓のない家(新潮文庫)

 

学生運動にのめり込んだ長男が重大事件を起こしたことで動揺する鬼童子家の面々を、父親・信之を中心に描いたフィクション作品である。着想自体は連合赤軍事件に得ており、主人公一家の設定(大企業の役職付きである父親と、横国学生で山荘立てこもり事件の後逮捕された息子)は連合赤軍メンバーで無期懲役囚である吉野雅邦とその父親を想起させる。しかし細々した設定は大きく異なっており*1物語の主題も学生運動ではなく、戦後の自由主義社会における親と成人した子の独立性に置かれている。

父である信之は、成人した息子・乙彦は自分とは別個の自立した人間であるとして、息子の起こした事件への謝罪もせず、会社を辞めることもしないため激しいバッシングを受ける。また、家族それぞれの、身内の犯した罪やそれによって変化せざるを得ない家族の形や生活のあり方へ向き合う姿についても比較的淡々と描かれている。正直連合赤軍への関心の延長で手に取ったわたしにはそう面白くない小説だったが、続けて偶然手に取った本によってこの小説が一気にリアリティを持った。

 沢木耕太郎の出世作『テロルの決算』である。

テロルの決算

テロルの決算

 

時代は連合赤軍事件より10年ほど前、安保闘争真っ只中。大江健三郎の「政治少年死す」 のモデルになったことでも知られる、17歳の右翼少年・山口二矢による浅沼稲二郎刺殺事件についてのノンフィクション作品である。若さゆえの短絡的ともいえる情熱でテロを起こすに至った山口と、対照的ともいえる老年の政治家浅沼の生い立ちや生き様をいずれも丁寧になぞった、実に面白い本だった。だが、本筋の面白さ以上にわたしが息を飲んだのは、山口二矢父親である山口晋平についての記述だった。以下の引用は、息子の行為に表立った謝罪をしない晋平に対して寄せられた批判である。

 いやしくも一人の人間の生命を、思想が反するからという理由で凶器で殺害した子供の父親として、どうして平然としていられるのか。遺族の人たちの嘆きと怒りのまえに、どうして申訳なかったという言葉が出ないのか。なぜ世間をお騒がせしてすまなかったと詫びる気持になれないのか。このことに関連して、また防衛庁を辞職する弁のなかでも、氏はことごとに自分は自由主義の時代に育った、自由主義者だと語っている。たしかに親が子の責任をとれぬばあいもある。しかし責任をとれぬことと、責任を感ずることとは両立するであろう。私はテロリズムをにくまぬ自由主義者を想像できぬし、子供の教育に責任を感じない自由主義者を考えることもできない。

新自由主義の時代に親が成人した子の責任を負わないというのは、まさしく『食卓のない家』において鬼童子信之が主張していた内容そのまま。1960年に起こった右翼少年のテロに対する父親の思想と、1971〜1972年に起こった新左翼青年たちによるテロに対するある父親の思想は不自然なまでにぴったり鏡像として重なり合う。後者がフィクションであることを勘案すると、円地文子は『食卓のない家』を書くに当たって、また鬼童子信之という人物を創作するに当たって、山口晋平をモデルに(少なくとも意識は)していたのではないかと思うが、さらっと調べた範囲ではその点に言及している資料は見つからなかった。

翻って現在はどうかといえば、有名人の子が何かしら起こせば、それがもはや子どもとは呼べない年齢であっても親は謝罪しときに自らに処分を科す。重大犯罪が起これば犯人の年齢に関わらず親や家族が批判を受け、耐えきれず加害者家族が死を選ぶ場合もある。もちろん加害者の生育環境に著しい問題のある場合もあれば、そうでないケースもあり、親の責任の有無について一概に語れない難しさもあるので、事あるごとに繰り返される議論を眺めてはやるせない気持ちになるばかり。約50年経って、加害者家族の罪と罰に関しては、今も結論が出ないどころか議論自体が同じ場所に留まったままであるように思える。

*1:鬼童子乙彦には妊娠により彼の前を去った「コケちゃん」なる元恋人がおり、山岳ベースで殺害された妊娠中の同志(この同志は吉野の恋人だった金子みちよを想起させるものの死に様は金子のものとは異なっている)と恋愛関係にはない。また乙彦が最後に、ハイジャック事件を起こした新左翼団体の要求により国外脱出するくだりは、もちろん吉野ではなく坂東国男がモデル。