メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

もう切るわ|井上荒野

もう切るわ (光文社文庫)

もう切るわ (光文社文庫)

なぜか、タイトルの「切る」を、わたしは勝手に電話のことだと決めつけていた。ラストにて明かされる意味は、思っていたものとはまったく違っていた。そして、作者である「井上荒野」という作家(名前と評判は耳にしていた。読むのは初めてだった)の名を、わたしは勝手に「いのうえ・こうや」と読むのだと決めつけていた。奥付に目をやると、「いのうえ・あれの」とある。こんなところでも、意表を突かれる。

第一の視点はもう50を目前にした「妻」。夫には他にも恋人がおり、妻は離婚を考えている。妻にも、愛人がいる。第二の視点が「恋人」。夫の浮気相手であり、夫婦の子どもといってもおかしくないような年齢であるらしい。夫「歳さん」は占い師で、どうにもつかみきれない、ひょうひょうとした人物だ。気まぐれでほら吹きで、優しくて、寂しがりで、(恐らくは浮気癖のようなものがあるのだろうが)不思議と憎めない。「歳さん」の身に起きたある変化をきっかけに、「妻」と「恋人」、そして他の周囲の人々は、揺れ動く。

読みやすい文章で、あらすじから想像されるようなどろどろとした感じは薄い。けれど、ストーリーがどうとか文章がどうとか言ってもこの作品の魅力の一切を語れるわけではなく、わたしは結局この本を読んでいる間、そして読み終わった今、「歳さん」に恋をしている、そのことだけが肝心なのだと思う。「妻」の視点を通して、「恋人」の視点を通して、そして読者である自分の目で、「歳さん」というどうしようもない人を、どうしようもなくいとおしく思う。

同じような感覚に覚えがあるな、と、思い出すのは川上弘美「ニシノユキヒコの恋と冒険」。数少ないわたしの好きな「女性作家の恋愛小説」だ。たくさんの女性の目を通して描かれた、寂しくて優しくてどうしようもない「ニシノユキヒコ」に、やはりわたしは恋をしていた。「結局、つかみ所のない女たらしが好きなのか?」聞かれたら……悔しいけれどうなずかざるを得ないかもしれない。