メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

奇跡の海|ラース・フォン・トリアー

観た人をどん底に落とし込む技術に関しては定評のあるラース・フォン・トリアー。リンチが生理的嫌悪のツボをピンポイントで突いてくる監督だとするならば、フォン・トリアーは心理的嫌悪のツボを突いてくる。とりわけ村八分的な悪意、むごさを描かせると、実に容赦ない。

敬虔なプロテスタントの女性ベスは、石油採掘夫のヤンと結婚する。神に祈り続けてようやく見つけた運命の恋人にベスは夢中になるが、教会を中心とする閉鎖的な村は、よそもので信仰心の薄いヤンのことを心からは歓迎しない。蜜月もそこそこに、仕事のため村を離れるヤン。ベスは彼からの連絡だけを待ちわびる日を過ごすようになる。そして、手を怪我して休みを与えられた採掘夫を見て、「ヤンも怪我をすれば早く帰ってくる」と、教会で祈りを捧げる。するとベスの願い通り、現場で事故が起こる。しかし、なんとヤンは命に関わる大怪我を負い、首から下が麻痺してしまう。責任を感じるベスに、性的に不能になったヤンは「愛人を作れ」と言う。他の男との情事の様子を語ってもらうことで、自分がベスに触れている気分を味わい、それが生きる気力になるというのだ。最初は拒むベスだが、ヤンの容態が悪化した折に、「愛の証を見せろ」との神の啓示を受ける。他の男と寝ること=ヤンを救うことであり、それこそが神の言う「愛の証」なのだという妄執に取り憑かれ、ベスはどんどん身を落としてゆく。しかし、いくら信仰心から出たものであっても、彼女の行為は宗教的には許されるものではない。教会から、村から、ベスは疎外されてゆく。

この映画は、ベスという一途な女性の、夫への純愛と献身の話と見ることもできるのかもしれないけれど、わたしにはそうは思えなかった。勝手な解釈をするならば、これは愛の話でもなければそれによる奇跡の話でもない。神様の話ですらない。

ヤンの怪我によるショックを待つまでもなく、最初からベスは、異様な表情をしている。こわばった顔で目だけを大きく見開く、口角をゆっくり上げてにたりと笑う、そして、何かと口を半開きにしている。教会に行けば、ひとり二役で、神との会話を始める。どう見ても、はなから彼女はまっとうな精神状態ではない。そして、ベスがぼろぼろになってまで救おうとするヤンは、(敢えてなのだろうけど)さして魅力的な人間として描かれてはいない。

結局は、「信仰」というものへの皮肉なのだと思う。

「神様から与えられた」理想の恋人を、「神様の前で誓った」永遠の愛を、頑に守ろうとするベスが、その過剰なまでの信仰心から生まれた行為によって、教会を追われるという皮肉。そして、自分の間違いを悟ったベスに対して、訪れるラストシーンは、絵面こそ美しいけれど、奇跡でもなければ神の発現でもない。「過ちを認めたベス」を更に裏切る、二重の皮肉にしか見えなかった。

フォン・トリアーは、神の視点で残酷だ。