メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

黒い時計の旅|スティーブ・エリクソン

黒い時計の旅 (白水uブックス)

黒い時計の旅 (白水uブックス)

エリクソン初読。著者紹介の部分に「時代を微視・巨視両方の視点ですくいとるユニークな手法で」と書かれているけれど、本当に、こういう大きな構造をもった物語をミクロな視点からもきっちり組み立てて、最後の最後にあそこまでマクロなところへ破綻なく持っていくのには驚かされた。

(先、ストーリーの核心に触れているかもしれないので、注意願います)


ポルノ作家・バニング・ジェーンライトにとっての現実「ヒトラーが負けなかった20世紀」と、移民のダンサーであるデーニアにとっての現実「(史実としての)ドイツが敗戦した20世紀」というふたつの世界を軸に話は進む。しかし、合わせ鏡の世界を舞台にしたメタフィクションといった単純な話では終わらない。

ウィーンの路地で窓越しに、バニングとデーニアの目が合った瞬間を軸に、ふたつの世界は分岐する。そして、ふたつの現実を結ぶ緩衝地帯のようなものとしてバニングの小説が、彼とデーニアと小説の依頼人Zを夜ごと繋ぐ。緩衝地帯は、バニングとっては彼のアパートの部屋であり、美しく自分を愛してくれる恋人との逢瀬である。デーニアにとっては、眠っているあいだに見知らぬ男に陵辱される(しかし肉体には現実としてその痕跡が残る)という悪夢である。また、小説で描写されているわけではないが、依頼人Zにとってもまた、この緩衝地帯は失われた愛を取り戻せる現実の場であったには違いなく、バニングが思い描いている、部屋の隅にうずくまるみすぼらしいZとは別のZが、Zの世界には存在したのだろう。

同じ緩衝地帯にあって、同一の事実を有しながら、彼らひとりひとりにとってそれは同じ現実ではありえない。ひとつの出来事を共有しながらも、それをおのおのの世界で別々の認識において体験する、というのがとても面白くて、現象学でいう認識ってこういう感じなのかしらとちょっと思ったり。

存在は、やはりここでもうつろいやすいものとして描かれる。

バニングは、自分の小説によってZの妄想をコントロールしているつもりが、いつのまにか彼の愛する女の髪の色や瞳の色は、ゲリ・ラウバルのそれにとって変わってしまう。終盤、再会したZへの復讐を思いながらも、まるで自らを守るかのように、結局彼はZを守り、Zの言葉を語る。

デーニアは、もうひとつの20世紀のなかでバニングやZの理想の女性としての存在を強要されるが、それと同時に彼女の20世紀のなかでも、出会う男ほとんどすべてに一方的な理想を押し付けられ、自らを自らとしてコントロールすることすら許されない。彼女がようやく彼女自身を手に入れたのは、バニングの呪いに打ち勝って、マークという「人間の子ども」を出産した瞬間で、彼女はずいぶん年老いている。

また、デーニアがバニングの小説の登場人物として登場すると同時に、語り手たるバニングは、デーニアの記憶の中の存在として登場する。複数の現実とさらにたくさんの幻想が絡み合う世界のなかで、誰もが自らの現実を生きると同時に、誰もが誰かの想像の産物にすぎないのかもしれないという可能性すら示唆される。

と、無理して小難しいことを書こうとしたけれど、これを読んで欲しい相手には多分「絶望的な恋愛小説」と紹介します。それでいいや。