メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

友達も恋人も最小限でいい

何かを誰かを好きになればなっただけ、わたしはばらばらになってゆくような気がする。好きになるというのは自分の一部がそのひとになることで、そのひとの一部を自分にしてしまうことで、もう、何がなんだかわかんなくなって、どんどん自分がいなくなってしまうようで、怖い。だから、あまり好きになりたくはない。

自分は自分で、あなたとは別の人間で、混じることもわかり合うこともできないことを理解して、それでも理解したいと望みもがくことをコミュニケーションだというならば、わたしにとって愛情というのは、コミュニケーションと対極にあるものなのかもしれない。

音楽や、それを作る人とのあいだにさえ、いまだにうまく距離を置けずにいる。同じような「表現物」でも、小説や映画なら少しはましなのは、「ストーリー」というワンクッションがあるからだろうか。これらについては、移入が制作者とは切り離されたフィクションに向かい、どんな感情も最終的にはその作品の枠内に収束する。けれど音楽、ことに日本語のうたを持つ音楽とそれを聴く自分とのあいだには、なんの緩衝剤もない。メロディと歌詞という、非常にチャンネルの少ない、想像の余地を多く残す表現手段だからこそ、親和性が高い。のめり込むというよりは、食べてしまう感じ。何度も聴いているうちにわたしの一部になってしまって、だから、それがなくなってしまうと、自分の一部が死んでしまうような気分になる。

幼稚ってこと、最終的には。