メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

グレート・ギャツビー|スコット・フィッツジェラルド

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

買ったのはずいぶん前で、序盤数十ページを読んだところで投げ出していた。定番の野崎訳も読んだことはない。そんなわけで、わたしはほんの数日前まで「グレート・ギャツビー」というのは、その名に対して主人公が考えていたのと同じように、「中年名士ギャツビー氏」との出会いを通して若き主人公がなにかを学びとる教訓臭い話だと思い込んでいた。ちなみにわたしは村上春樹の訳書とはとことん相性が合わないのか、かつてマイケル・ギルモアの「心臓を貫かれて」も、上巻すら読み終えないうちに断念している。

そんなまったく興味をそそられない本を再度読みはじめるに至ったのは、

1. 通勤電車で本を読みたい
2. 慣れない職場での昼休みに手持ち無沙汰なので、本を読みたい
にもかかわらず
3. 仕事が忙しく書店が開いている時間に職場を後にすることができない
ところに
4. 手元にある未読の本がこれしかなかった

というわけだったりする。相変わらず序盤は退屈。しかし、ギャツビーがその人間性をあらわにし、人々の関係が目まぐるしく動き出すあたりから、一気に面白くなり、あっというまに読了。

読み終えてはじめて、「ノルウェイの森」を書いた作家にとって「グレート・ギャツビー」が特別な小説であったことに納得がいった。というか、「グレート・ギャツビー」を大切に思っていた若者が「ノルウェイの森」を書いたことを、すんなりと受け入れることができた。

少なくはない登場人物に、それぞれはっきりくっきりとしたキャラクターが付与されている。誰もがひどく個性的なようでいて、親近感を感じるし、腹立たしく苛立たしい。すべての人物に対して純粋性と俗物性のどちらもがまんべんなく描かれているからこそ、特定の人物に肩入れをすることがなく読み終え、このストーリーに、結末に、俯瞰的な哀しみ、無常を感じたのかもしれない。