メトロガール

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私自身の見えない徴|エイミー・ベンダー

私自身の見えない徴

私自身の見えない徴

エイミーの描く女の子は、愛されなくて寂しくて、失ってばかり(もしくは何も手に入れられない)のだと思っていたけれど、これは「誰も何も失わない」物語。「失うこと」を受容する、というのはこの作品のひとつの主題ではあるのだろう。それを「何かを失ったうえで」受け入れるのではなく、「何も失わないままに」克服してゆく手法が素晴らしいと思った。鬱屈とした流れが続き、破壊、そこからの恢復の流れがとにかく美しい。

臆病なモナは、なんだって完成する直前で止めてしまう。陸上競技も、ピアノも、シャボン玉も、恋人も。この小説を通じてモナは変わってゆくけれど、その変化における周囲との関わりが良い。ぴったりと彼女の影、愛情と不安の象徴のように張りつく両親。彼女にとって理解する(される)大人の象徴であるジョーンズさん。彼女に働きかけ、彼女を暴く、理科の先生。彼女が働きかけ、庇護する対象としてのリサ(や他の子どもたち)。ひとが大人になるための、能動的、受動的なコミュニケーションのかたちがほとんどすべて、この少ない登場人物の関わりのうちに網羅されている。とりわけ、ジョーンズさんとモナとリサ、大中小、いびつな相似形のような三人の関わりにはぐっときた。

わたしは、エイミー・ベンダーはきっと短編向きの作家なのだろうと思っていた。彼女の作品に多いモチーフは思春期的な不安定さを持つ少女の焦燥や揺らぎで、エグくメルヘンチックにそういったものを描くには、短編くらいの分量がちょうど良いに決まっている。あまり長くなると、むしろ少女たちの自意識ばかりが鼻につき、読んでいて苛々するのではないかと考えていた。けれど、結果的にわたしは彼女のどの短編よりも、この一本の長編小説のことが好きになってしまったかもしれない。