メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

どちらでもいい|アゴタ・クリストフ

どちらでもいい (ハヤカワepi文庫)

どちらでもいい (ハヤカワepi文庫)

初訳短編を加えての文庫化。

悪童日記」三部作は商業的に成功した。そして、おそらく彼女が書きたいことは、この三冊の小説にすべて注ぎ込まれていたのだろう。他の数冊、戯曲や「昨日」、この(初期のものが多くおさめられ、幾編かは後の長編小説のフラグメンツとなっている)短編集は、作家本人が認めているとおり、三部作に対して秀でたものでもないし、別の視点/手法で挑まれたものでもない。そういった意味で、彼女の文学的な才については高く評価をしない向きもあるようなのだけれど、読者のわたしにとってはまさしくそんなことはどうでもいいこと。

アゴタ・クリストフはわたしがもっとも愛している作家のひとりで、自分の国をなくして、母国語以外で書く人。でも、同じく亡命作家のナボコフなんかとはまた全然受ける感じが違う。ナボコフからは、どちらかといえば能動的にロシアを捨て、アメリカ人として生きることを選んだような、人間的文学的な自己の確立を強く感じるけれど、アゴタはいつまでたっても空っぽで、仏語にどれだけなじもうと、祖国を失った風穴はいつまでも彼女のなかにびゅうびゅう寂しい風を吹かせたままでいる。乱暴な言い方をしてしまえば、あまり、作家という感じはしないひとで、技術や表現をどうこうといった次元ではなく、そこにはアイデンティティ確立への欲求すら希薄で、このひとはただ、手も品も変えようと、変えたいとも思わず、ひたすら自分の空洞を書き出すことで、なんとか生きようと、闘ってきたんじゃないだろうか。

訳者の堀茂樹さんは、アゴタ・クリストフの文章を「モノクロームだ」と評し、それをまた、モノクロームの日本語に置き換える。はじめて訳文に違和感なく触れることができた翻訳小説が「悪童日記」で、あの本と出会わなければ、海外小説に強く関心を持つようになるのがまだずいぶん先になっていたかもしれない。