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囚人のジレンマ|リチャード・パワーズ

囚人のジレンマ

囚人のジレンマ

前回のエントリーで「ロジックに殺される」という表現をしたのは、7割程度まで読み進めたこの小説を、ビッグ・エディをそういう人物だと思っていたからだ。知に、言葉に、ロジックに溺れた人間が、結果的に自壊へと向かう小説なのだと(彼の病気を、精神に起因するもの、一種の詐病的なものではないかと疑ってすらいた)。でも、違っていた。小説終盤で、個の抱えるジレンマや苦しみが社会に、世界に拡大するさまが明確に描かれる。卑小にして偉大なるビッグ・エディは自らを救おうとすると同時に、日本人を、アメリカを、歴史を救おうと孤独に闘っていた。

奇妙な病にかかりながらも病院にかかろうとしない、博覧強記でロジックとゲームが大好きな、風変わりな父親「ビッグ・エディ」、そして、妻と四人の子どもたち。ホブソン一家のファミリー・アフェアーがこの小説の中心である。家族はそれぞれ、父親の影響を強く受けながらもまったく異なる個性を持つ。彼らの関係には強い感情の齟齬が見て取れるが、それでも家族は愛情といたわりを持っている。小説の主題としては決して明るいものではないし、投げかけられる問題はなにひとつ解決しない。それでもこの作品の印象が全体として軽快で明るいものとなっているのは、ホブソン一家の会話から、どんなときにもユーモアが失われないからだろう。終盤けっこうなカタストロフィを味わい、最後の最後「1979」と題された一章で、その明るさに笑い泣いた。

ちなみに「知の小説家」と言われるパワーズの言葉遊びと引用は、噂どおり尋常なものではなかった。注釈の内容や掲載方法が親切な書籍だったので、かろうじて読み進めることができたのかもしれない。でも、引用も言葉遊びも、結局のところ「修飾語」「目くらまし」なんじゃないかと思える。ビッグ・エディが家族をけむに巻くように、パワーズの過剰な知に彩られた文体は読者をけむに巻く。でもこんなのただの修辞だと、ばっさり切り捨ててしまうのも(もしかしたら正しくはないのかもしれないけれど)、ひとつのテクニックであるような気がする。肝心なものはそんなところにはなかった。少なくともわたしはそう思った。