メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

浄土|町田康

浄土 (講談社文庫)

浄土 (講談社文庫)

歌手としての町田康のステージは、二度ほど見たことがある。

一度は、彼本業のパンクではなく、アコースティックギターを片手にブルースのようなものを歌っていた。もう一度は、石橋英子さんやAxSxEさんと一緒で、あれは多分パンクだったのだろう。いや、ポエトリーリーディングだったのかもしれない。髪を振り乱し、ひとしきり、スガキヤのうどんについて歌った後で、町田さんは呪詛のような言葉を吐きはじめた。鳥居の話をしていた。よくは覚えていないのだけども、真っ白い鳥居に触れたら、実はその鳥居はすっかり朽ち果てていて、朽ちた木をねぐらにウジ虫が大量に湧いて最終的にウジ虫が鳥居のかたちになっていたもので、触れた瞬間一気にウジが崩れ落ちるという、なんとも気色悪い話だった。その帰り道、七三分けのなんだかなよなよとした背の高い男性に「町田さんのファンの方ですか?」と話しかけられ、知らない人が苦手なわたしは思わず「違います!」と叫んで、早足で逃げた。

作家としての町田康に興味を持ったのは「きれぎれ」が出版されたときで、その文体と支離滅裂な展開には戸惑った。その後町田さんのエッセイを好むようになり、逆に小説からは離れていった。賞を取った「告白」も、歴史小説が苦手なので、読もうとも思わなかった。

「浄土」。町田さんのエッセイは、エッセイといえども非常に幻視的なもので、そういう意味合いで言うならばこの短編集は、小説とエッセイの中間と言っていいかもしれない。「本音街」や「ギャオスの話」のような、はっきりと架空設定されている作品もあるものの、ほとんどは、日常生活の延長の中で、虚実の境目があいまいになってゆく。

以前「東京飄然」の感想として、町田康のレンズは、ごく当たり前の景色を奇妙にゆがめて写し出す、というようなことを書いたような気がするのだけども、「浄土」からもまさしくそのような印象を受ける。町田氏の観察眼はとんでもない。「あぱぱ踊り」(←個人的にこの短編集で一番好きな作品)のうさんくさい男にしろ、「自分の群像」の温夫にしろ、こういう奴は、確かにいる。しかも身の回りに結構な確立で。それを見事に観察して、デフォルメしている。「自分の群像」については、サラリーマン経験などあるはずのない町田氏がなぜこんなにも生々しい話を書けるのかと首を傾げるほどだった。そして、その鋭い観察眼をもって、彼が写実的な小説を書くかといえば、そうではない。目の前の光景を忠実に写し出すカメラ。しかし特殊な屈折を持つレンズやフィルターを用いると、瞬時にして世界は見慣れない奇妙な色かたちに変わる。町田康の目は、筆は、そんな不思議なフィルターを備えていて、ごくごくあたりまえのひとや光景を、あっというまに非日常へと変えてしまう。

ちなみにこの文庫本を読みながらずっとボリス・ヴィアンのことを考えていたので、解説のしょっぱなにその名前を見つけたときにはたいそう驚いた、とはいえ解説者のような深い意味を持ってヴィアンに思いを馳せたわけではなく、わたしはただ「どぶさらえ」が、「心臓抜き」の恥を引き受ける男と重なっただけだったのだけど。