メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

血と暴力の国、そしてノー・カントリー

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

先に、コーエン兄弟の映画「ノーカントリー」を観てしまっていたので、できるだけイメージを引きずらないよう、真っ白な状態で読もうと思っていたのだけども、やはりそれはちょっと難しかった。なので、感想も比較論に偏ってしまうと思う。

原作を読んでみると、映画は思った以上に原作に忠実に撮られているのだと、逆に驚いた。多少はエピソードの省略、時系列に沿ったかたちでの入れ替えがあるものの、大きな変更点というのはほんの数カ所にとどまっていたように思う。テントや洋服を購入するシーンや、メキシコ入国のシーン、シャツ云々のシーンを原作以上にユーモラスに描いてみせたところはコーエン兄弟のお手柄だし、銃撃戦や、モーテルでモスがアタッシュケースを隠すシーンなど、字面を追いながら情景を思い浮かべるのにちょっとした困難が伴うシーンを、一気に視覚で見せられるのは、これはもうメディアとしての映画のアドバンテージみたいなものだろう。

ただし、内容としては忠実であるにも関わらず、全体を通して、観終え、読み終えたときの「ノーカントリー」と「血と暴力の国」からは、それぞれまったく別の作品のような印象を受ける。「ノーカントリー」において、シュガーは「モンスター」であり「フリークス」であり、最終的にこの映画はクライム・ムービーと呼ぶにふさわしいものだった。一方「血と暴力の国」においては、解説でも触れられているように、シュガーは殺人鬼というよりはむしろ「運命」や「宿命」といったものが擬人化された存在だった。この違いがどこからくるのかというと、映画では、シュガーの長台詞の多くが削られていたことが理由のひとつではないだろうか。殺人鬼の不気味さ恐ろしさが際立っている反面、シュガー(のみならずこの小説の中で様々な人間)によって語られる、運命や、人生が一本の道であるという主題については、説明的な部分がばっさりやられていた。だから、作品全体として受ける印象が大きく違ってきたのだろう。

もうひとつ、決定的な違いといえば、モスと少女のエピソードが映画では切られていた。これは尺の問題なのかもしれないけども、大きかった。この部分は、モスの思想を読者に知らしめるためにも、カーラ・ジーンに訪れる結末のためにも、とても大切なシークエンスだった。モスは思想としてはシュガーと共通するものを持っている。彼はおそらく運命や宿命を信じている、もしくは逃亡劇の最中に信じるようになった。自分の運命や、それが避けがたいものであるとわかった上で、運命に、神に抗っている。カーラ・ジーンは、結局この一件のおかげでモスを信用することができなくなり、のちのシュガーと彼女のやりとりの「うちの人があたしを殺したがったっていうの?」という台詞及びその後の絶望にもつながってゆく。極限まで抗ったゆえの罰の大きさとでもいうのか、モスと、さらには完全に「とばっちりを受けた」としかいいようのない彼の妻への運命の仕打ちはあまりに残酷だ。

得体の知れない殺人鬼が闊歩するアメリカと、それを憂う老保安官、というのが映画「ノーカントリー」。一方、避けがたい、ときに理不尽な運命に翻弄される人々の姿が印象に残る「血と暴力の国」。どちらもそれぞれ、素晴らしかった。順序として映画→小説と進んだのは正解だったかな。逆だったらやはり、作品としての力点の違いに戸惑ったかもしれない。

ちなみに「ノーカントリー」でシュガーを怪演したハビエル・ダルデムは、映画「コレラの時代の愛」でフロレンティーノ・アリーサを演じている。予告編(「コレラ」の)観たのに、ヅラつけてなかったんでさっぱり気づかなかった。

(追記)
と、さんざん書いたところで、でもわたし、映画一回しか観てないしなあ、と「ノーカントリー」の受け止め方にちょっと自信がなくなったのでそのうちDVDがでたらちゃんと観返すことにします。過去のコーエン作品を思い出してみると「ちょっとした欲望が、雪だるま式に電気椅子」とか「突然仲間が死んで、遺骨を海に撒こうとしたら風向きが変わって自分の顔に直撃」とか「完全犯罪かとおもったら突然の不運で死亡」とか。「オー!ブラザー」の線路を行く盲目の老人のモチーフにしろ、彼らも、避けがたい運命の道筋のようなものを繰り返し描いてきていると思うので。