メトロガール

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さようなら、ギャングたち|高橋源一郎

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

できることならばわたしは、高橋源一郎というひとのことを何も知らないままこの小説を読みたかった。小説としての切実さだけを味わえれば良かったのに、私小説としての痛々しさが読んでいて視界を遮る。それはそれでひとつの読み方なんだけど、後からついてくればいいもの、後からついてくるべきものであるような気がする。まず真っ白いままこれを読んで、後書きを読んで、どこかで作者についてのあれこれを聞き込んできて、それから読み返すような、そのほうが幸せだったんだと思う。
だからこの先ちょっと畳みます。


形式はブローティガン。文体は、独特というよりは「非常に80年代的」。時代を切り取るというのは本当に加減が難しくて、村上春樹の80年代は今でも十分有効なんだけど、橋本治の「桃尻娘シリーズ」は当時は最大の武器であったあの文体のために、もはや今の若い読者にまっすぐ受け止められることはないだろう(そもそもずいぶん長く欠品しているし)、内容は素晴らしい青春小説であるにも関わらず。そういう意味で、「さようなら、ギャングたち」の文体はぎりぎりの普遍性を保っている。

キャラウェイが誰であるか、とか、詩の学校と詩の書けない生徒たちが何を意味するのか、とか、そんなことを考えすぎたのが悔やまれるところなんだけど、でもやっぱり第1章のキャラウェイのエピソードは素晴らしい。本当に素晴らしい。S・B(=詩)を失い、トーマス・マン(=小説)は現実に存在せず、ヘンリー4世(=戯曲)は死ぬ。それらすべてをなくした「わたし」は、自分は詩人ではなくギャングだったのだと考える。そして、ギャングとして振る舞う。しかし、ギャングならば死なないはずの心臓への一撃で、彼は死ぬ。結局彼はギャング(=学生運動家)ではなく詩人だった。

実は、高橋氏の小説は割と新しいものしか読んだことがなく、わたしの中では小説家というより評論家としての位置づけの方が重要だった(今まで読んだの、そんなに面白くなかったし)。だから正直目から鱗が落ちた気分。