メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

落下の王国|ターセム

1900年代初頭のロサンゼルス、スタントに失敗し橋から落下、下半身の感覚を失ったロイは、人気俳優に恋人を奪われた失恋の傷もあいまって、自殺願望を抱え入院している。同じ病院に入院している5歳の少女アレクサンドリアは、稼業のオレンジ農園を手伝っている最中、足を滑らせ落下し腕を折っている。アレクサンドリアが看護士相手に投げた手紙が、風で飛ばされロイのベッドに迷い込んだことから、ふたりは出会う。「アレクサンダー大王にちなんだ名前なのかい?」と訊ね、ロイはアレクサンドリアに、大王の話を聞かせる。目を輝かせるアレクサンドリアの姿にロイは「明日もおいで、お話をしてあげる」と言う。そして、暴君に復讐を誓う戦士たちの物語を語りはじめる。

CGを一切使わず、世界各地の遺跡や自然のなかで撮影された映像がとにかく素晴らしいと聞いていたので、これは大スクリーンで観なければ、と思っていた。ストーリーや演技にはそんなに期待していなかったのだけど、良かった。筋自体は単純で、「絶望したスタントマンが、少女との交流を通し、生きようという気持ちを取り戻す」というもの。薬物自殺しようとしているロイは、事故により下半身付随となっているので、薬を手に入れることができないため、無知な子どもの気を引き操って、調剤室からモルヒネを盗み出させようとする。そこでターゲットにしたのがアレクサンドリアで、彼女の気を引くためのツールが「お話」。

作家でもなんでもないロイの物語は荒唐無稽で行き当たりばったり、気分次第でめちゃくちゃな展開をする。しかもアレクサンドリアの気を引かなくてはならないので、彼女が内容に口を差し挟めば、その通りに改変されたりもする。さらには、「映画」としてわたしたちが観る「物語」は、ロイの語りをアレクサンドリアが想像した、頭の中の「映像」そのままだったりするので、彼女の現実世界が強く反映される。例えば、物語は冒頭、主人公である黒山賊のモデルを、死んでしまったアレクサンドリアの父としている。しかし、アレクサンドリアがロイに懐いた頃、物語の中で黒山賊が仮面を外すと、そこから出てくるのはロイの顔である。アレクサンドリアの中で、ヒーロー=父=ロイの構図ができあがったからだ。

同じように物語に出て来る戦士や敵たちは皆、病院の職員や出入り業者であったり、ロイの元にやって来た見舞客であったり、アレクサンドリアの農場で働く使用人だったりする。そして、彼らに降り注ぐ現実に寄り添い溶け合うように、自在にときに悲しく展開してゆく様子はまさしく「語られる物語」だ。プロダクションノートを読むと、ターセムはこれをきっちりと展開の固定された「小説」でなく齟齬や矛盾も多いが自由に語られる「子どもの物語」であることを強く意識してこの物語を作っているようだった。まあ、最後やけっぱちになったロイが語り出す物語の結末あたりは、あまりにぐだぐだすぎて、だからこそ泣き笑ったのだけども。

アレクサンドリアを演じる少女は素人で、実際、そんなには映画や物語を理解しておらず、だからこそ自然に振る舞ってもいたらしい。移民の娘である様子のアレクサンドリアは、まだ英語がたどたどしい(彼女の家族はまったく英語を解さない設定のようで、医師が「もう農園で子どもを働かせないでください」と言うのを、アレクサンドリアが母親に伝えることができず、訳した振りをしながらまったく別の内容を伝える、という場面も印象深い)。彼女と周囲の人間との関わりは、「物語の獲得」だけでなく「言語、概念の獲得」にも満ちていて、そのあたりもとても興味深かった。

風景や衣装を楽しむも良し、ヒューマンドラマとして楽しむもよし、物語や言語について考えてみるもよしの映画ですが、やっぱり映像の素晴らしさがこの映画の大きな要素ではあるので、劇場で観ておいた方がいいと思います。是非。子役も魅力的ですが、猿のウォレスも名演技を見せてくれますし、挿入される人形アニメも素晴らしかった。