メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

ポール・オースターを読む

シティ・オヴ・グラス (角川文庫)

シティ・オヴ・グラス (角川文庫)

幽霊たち (新潮文庫)

幽霊たち (新潮文庫)

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

「ニューヨーク三部作」というものを知っていたのに、うっかりまず「鍵のかかった部屋」を読んでしまい、慌てて「シティ・オヴ・グラス」「幽霊たち」を買いに走った(続き物ではなくそれぞれ独立した話なので、あせってまとめて読む必要もなかったのかなという気もするけれど)。しかし三部作なのにすべて出版社が違うというのはどうにかならないものか……。

オースターはあまり読んだことがなく、初期作品はこれがはじめてだったのでちょっと驚いた。今まで読んだ作品もそれぞれ奇妙な要素を含んではいたけれど、まだ小説としての起承転結、ストーリーははっきりしているものばかりだった。いっぽうこれら3作は、かなりカフカ的要素の高い、理不尽な小説群だった。

これら小説の共通点は、「単調な生活を送っている男(主人公)が、人探しや見張りのような仕事を依頼される→真面目に任務を遂行しているが、何も起こらない→段々、自分のやっていることがなんなのかわからなくなり、自分が追っている(見張っている)のか、追われている(見張られている)のか、自分が誰なのかもよくわからなくなる→……(結末に関係するので省略)」という流れ。基本的には、日常から混沌に投げ込まれ、どんどん殻に閉じこもってゆき、個を剥奪されてゆくというのは確かに極めてカフカ風で公房風なんだけども、書きぶりはもっと乾いていて、スタイリッシュで、ハードボイルド的。

オースターはいかにも作家らしく、作中でも「書くこと」「言葉」にやや偏執的なこだわりを見せる。ポストモダンに分類される作家の作品を読むときに、同じような「言葉」への執着を感じることは多いのだけども、そのたびに思い出すのが、ジャーナリストの柳田邦夫氏が、自殺した息子さんについて書いた本の中あった「息子は細かい字で執拗に、詳細に、膨大な日記を付けていた。まるで世界すべてをその中に書き尽くそうとするかのように」というようなニュアンスの一節だ。それらをまったく同じものとして捉えることはできないけれど、言葉で世界を、人間を解体しようとすることは、やっぱりパラドックスのはじまりではあるのかもしれない。

言葉は世界や人とイコールであるか、言葉はすべてを解体し映し出すことができるかといえば当然答えはノーとなる、言葉というのは物質そのものではなくあくまで概念にすぎないので、言葉というラベルを通して他者同士が認識・概念の擦り合わせをするためのツールにすぎない。だから、書き続けること、言葉にのめり込みすぎることで得られるのは世界への理解ではなく、それはもはや彼の脳内にある、何か別の新しい世界なのだ。そして、その自分だけの世界にどんどん閉じこもってゆき、元いた世界での自分を失ってしまう。