メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

たぶんきっと永遠に

緒方拳さんが亡くなり、ああ、と思っていた矢先に峰岸徹さんが亡くなった。

ブラウン管やスクリーンでしか知らない、けれど、下手な知り合いよりもよっぽど頻繁に目にする著名人、芸能人の死というのは、身内の死とはまったく違う不思議な感傷をもたらす。加えて、わたしの忘れっぽさが、さらにその奇妙な感覚を増長させる。要するにわたしは、すぐに忘れてしまうのだ、そのひとが亡くなったことを。そして、ふとした拍子に彼、もしくは彼女がずいぶん前に召されていたことを思い出しては、「ああ、そうだった、もうあのひとはこの世にいないんだ」と感傷にふける。

画面の中の人々は、実在の人物なんだけど、わたしにとってはフィクションでもあるから、そういう意味で永遠に生きてもいるし永遠に死んでもいる。だからついつい彼らの生死を忘れてしまうのかもしれない。

子どものころは第一印象がすべてだった。だから、子どもの頃に強い印象を受けた相手のことは、いまだに最初のイメージを引きずってしまう。あの頃「お兄さん」と思った相手は、おじさんになっても「お兄さん」にしか見えない。あの頃「おじさん」と思った相手は、80歳になろうと「おじさん」のままであるような気がしてしまう。成長して認識能力が発達したからなのか、ある程度の年齢以上で見知った相手に対してはそういうことはなく、自分も相手も同じように、イメージの中でも現実どおりに歳を重ねることができる。

はじめて観た作品で「おじさん」だと思ったジャック・ニコルソンは、いまだにわたしのなかでは「おじさん」のままで、「カッコーの巣の上で」や「シャイニング」のままでいる。だから、不意に近年の彼の姿を見ると、あまりの変わりように驚いてしまう。でもやっぱりイメージの上ではいつまでも「おじさん」のままだから、わたしは心のどこかで、ジャック・ニコルソンは永遠に死なないのだと思っている。

はじめて観た作品で「おじいさん」だと思ったアンソニー・ホプキンスは、いつ見ても「おじいさん」のままなので、時間が止まったような気がして、不意に近年の彼の姿を見ると、それはそれでわたしは驚く。彼はいつ見ても「おじいさん」のままだから、いつまでもこのまま「おじいさん」のままで、わたしは心のどこかで、アンソニー・ホプキンスは永遠に死なないのだと思っている。

ちなみに今このエントリーを書くためにプロフィールを見たら、ジャック・ニコルソンアンソニー・ホプキンスが同じ年齢だったので驚いた。今現在の姿を比べれば納得がいくんだけども、第一印象が「1975年(カッコーの巣の上で)」と「1991年(羊たちの沈黙)」なので、わたしの脳内で彼らのあいだには、ざっと16歳の年齢差がある。決して埋まらない年の差が。