メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

おとなになるの

恥ずかしい話をしてしまえば、大学を卒業するあたりのわたしはモラトリアムそのもので、もう本当に、弁護できないくらいずたずただった。生化学系の研究室で生き物を相手にしていたので世話のため休みなく登校、連日深夜まで続く実験に心は折れ、大学院に進む気も、かつて志した医薬品や化粧品の開発職を目指す気もすっかりなくなっていた。申し訳程度にMRの企業説明会に足を運ぶも、営業が勤まる気はせず、結局その年就職活動実績はゼロ。なんとか卒論が通り、翌四月からはただの無職。毎日何をやっていたかといえば、図書館に通ってひたすら本を読み、映画館に入り浸り、DVDを借りてくる。そんな生活は二年間続いた。

仕事に就いたのは自立したいという意志が芽生えたからだ。精神的に自立するためにはまず、経済的に自立しなければいけない。とりあえず日々の糧を自分で稼ごうと思った。当時絶望的ともいえる恋愛をしていて、とにかく自立したくて、強くなりたかった。何にも依存せず、誰にも見返りを求めずに生きられるようになろうという、それだけだった。

わたしは今の仕事が特に好きだというわけでもないが、自分に向いた仕事だと思っている。身も心も捧げるほどのめり込んではいないし、仕事=自己実現などと考えてもいないので、だからこそ多少つまづいても何とも思わない。仕事に駄目出しをされることは、わたしの人間性を否定されることとは一切関わりがないことで、不機嫌にもならないし傷つきもしない。いくらでもやり直し、ひとの意見だって聞く。ただし、労働力に対価を貰っている存在ではあるから、与えられたことは不足なく迅速にこなさなければならないし、それなりの好奇心や責任感を持って仕事には向かっているつもりだ。今まで一緒に仕事をした相手はわたしを「めげない」「くさらない」と評すけれど、わたしはきっと、この仕事に思い入れがないからこそ、この仕事に適しているのだと思う。

好きなことを仕事にできるひとは幸せだと羨む言葉をよく聞くが、そんなこと、よっぽどの勇気がなければできないんじゃないだろうか。残念ながら物書きは知り合いにいないが、例えばデザイナー、カメラマン、ミュージシャンなど今までに知り合った相手は、皆それぞれに大変さを抱えていた。いい意味での大胆さや無鉄砲さがなければこの手の仕事はできないし、何より仕事に自分を投影し「仕事を否定される=人間性を否定される」という構図は、わたしにとっては死ぬほどこわいもので、逆立ちしたって勤まりそうにない。

仲の良い友人は、博士号を取ったあとも大学に残り研究を続けていた。最近、その成果が認められ、国から数年間のあいだ研究費をもらうことになった。研究員としての籍は某大学にあるが、教職にはあたらないので出勤はしない。彼女の研究は、ボランティアを兼ねたフィールドワークで集積したデータをもとにする人文学的分野のものなので、週に一度ボランティア先に出向く以外は家に籠って論文を書いたり読んだりしている。その生活自体は今までと何ひとつ変わらないのに、突然無収入から、毎月まとまった(同世代にしては多額ともいえる)収入を得るようになったので、周囲からはなかなか理解が得られない。理系研究者のようにわかりやすく、研究所に出向くようなこともないので、彼女の収入は、学術の世界から遠いひとには「不労所得」に見えてしまうのだろう。しかし、ひたすら部屋で勉強を続けることには、外に出向いて与えられた仕事をする以上の忍耐と持久力を必要とするように思える。
お金をもらう以上、楽な仕事などこの世にはない。あるとすれば、とんでもなくハイリスクな仕事だけだ。そしてやはり、お金を稼ぐことは働くことで、それはイコール生きることなので、決して甘く考えてはいけない。自分の仕事も他人の仕事も、別々の苦しさがあって、それを理解したいし尊重したい。過去の恥ずかしい自分への反省も込めて。