メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

ジョン・アーヴィングと穂村弘

サーカスの息子〈上〉 (新潮文庫)

サーカスの息子〈上〉 (新潮文庫)

サーカスの息子〈下〉 (新潮文庫)

サーカスの息子〈下〉 (新潮文庫)

ようやく読んだアーヴィングの1冊目がこれ、というのが相応しいのかそうでないのかはわからない。なんせ舞台がインドで主人公がインド人。これは、アーヴィングを多少なりとも把握するのに役立つ小説なのだろうか。でも、多分良かったんだろう。なぜなら面白かったから。他の小説も読んでみたいと思ったから。

アクの強い登場人物が次々あらわれ、あちこちに舞台も飛ぶので序盤はもたついたが、ばらばらだったキャラクターやエピソードが一本につながるあたりから俄然面白くなってきた。主人公のファルークが、故郷であるインドにも移り住んだカナダにもhomeを見いだせないのと同様に、例えば自らが映画で演じるキャラクターと本来の自分の境目があいまいになっているジョン・Dや、芸が出来なくなってサーカスを去った小人、アメリカを逃げ出したヒッピー女に、子どもとして振る舞えない少女売春婦や、男女の性別を曖昧に生きる女装売春婦たち。この小説に出て来る人物のほとんどは揺らぐ自己への不安と闘っている。ひとつひとつのストーリーは重く胸にのしかかるものであるけれど、舞台であるインドの雰囲気や軽妙な語り、そして活劇風の筋立てのおかげで深刻になりすぎず、とても良かった。
インドのひとからすればとんでもない描き方なのかもしれないけど、欧米人の見る「不思議の国インド」にはなんだか共通したものがある。しんみりしながらもコミカルでうさんくさい感じ。この小説とウェス・アンダーソンの「ダージリン急行」は同じ空気を持っていると思う。

誰もがゆらぐアイデンティティを抱え、帰るべき場所を探しているこの作品においては憎むべき連続殺人犯にもどこか運命的な悲しみがつきまとう。そんななかほとんどゆらぐことのない絶対の自己を持っている登場人物が二名とも女性だったことは印象深い。アンチ母性の象徴であるヴェラと、母性の象徴であるジュリア。この二人の対比は面白い。皮肉なのは、登場人物中もっとも「出来た人間」であるジュリアが、女性としてはもっとも魅力的ではなく描かれているところなのかな、と思う。


本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)

本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)

立ち読みでぱらぱら程度しか読んだことなかった穂村弘さん。タイトルに惹かれて手に取り1本目「エスプレッソ」を読むとそのままレジへ持っていった。身につまされたり、「わたしはここまでじゃなくて良かった」と妙な優越感でほっとしてしまったりするのが、こういう自虐的エッセイを読んでいるときの醍醐味なのだけど、穂村氏についてはどうも後者がメインな気がする。自虐エッセイといえば、の町田康が、あの風貌のおかげもあってかどれだけ泥に汚れてもどこか武士然と、格好良くすら思えるのに対してごめんなさい。穂村氏はとことん情けなくて格好悪くてときに気持ち悪い。

ほむらさん、嫉妬に狂って畳に無数の箸を突き刺さないでください。ほむらさん、「セックスできれいになる」に反応しすぎです。ほむらさん、正直アーモンドを口の中で弄びつづけるのはひととして如何かと思います。

でも、絶対に、この気持ち悪さこそが才能で、彼の最大の武器なのだと思う。

そういえば、わたしも、自分の背中がいつかぱかっと割れて、中からもっと素敵な何かが出てきてくれるんじゃないかという妄想をしているうちにここまで来てしまったのだ。本当はちがうんだ。ちがったらいいな。そんなこと思いながら、きっとそのうちわたしも白い鼻毛に愕然とする日がくるのだろう。
ところで短歌って全然縁がなかった(くせに来年一年間毎日一首ずつ詠む計画をたてている)ので、教科書に載っているくらいしか知らなかったんだけど、この本で引用されていた与謝野晶子はすごかった。与謝野鉄幹が亡くなったときの歌だそうです。

冬の夜の星空なりき一つをば云ふにはあらずことごとく皆 与謝野晶子