メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

ラースと、その彼女

心優しいが内気な青年ラースは、他人とのコミュニケーションにも消極的で、自室であるガレージにこもってばかりいる。母屋に住む兄夫婦は彼を心配し、同じ職場の新入社員マーゴもラースを何かと気にかけるが、反応はかんばしくない。そんなある日、ラースが兄夫婦にガールフレンドを紹介したいと言う。喜ぶ兄夫婦だが、なんとラースが連れてきたのは「リアルドール(等身大の精密に作られたダッチワイフ)」だった。精神を病んだに違いないと、兄夫婦はラースを騙し病院に連れてゆく。そこで「ラースの妄想につきあってあげること」が治療法だと言われ、兄夫婦や職場の人々、地域の住人たちは、ビアンカ(人形)をあたかも生きている女性のように扱うという演技をはじめる。

素朴で穏やかで、ハッピーになれる素敵な映画だった。多分映画館で観るのはこれが今年最後の一本なんだけど、一年の締めくくりがこれで良かったと心から思えた。まず、ラースの風貌や物腰が、彼のキャラクターにぴったりで、あの少し困ったような、芯から善良な笑顔がすごくいい。そのラースがまじめくさって人形を恋人として扱うのだから、序盤は彼のちょっとした行動にも周囲の人間は困惑し、そのたび劇場に笑いが巻き起こる。しかし、次第に周囲が能動的に「人間として」のビアンカに働きかけ、ビアンカを介してラースが他人と積極的に関わるようになってくると、もはやそこから生まれるのは「滑稽さ」ではない。ある種の切実さ、壁を破ろうとする不器用な人間を、周囲の住人たちと一緒になって応援してしまう。

リアルドールを恋人にする、というのは一見飛び道具的な設定だけども、ファンタジーとリアリティがいい具合に混じり合って、そこまで嘘くさくもない映画に仕上がっている。例えば、ラースの同僚がフィギュアオタクだったり、マーゴがテディベアを大切にしている描写などを適度に挟み込んでいるのも、巧い。個人的に、テディベアの蘇生のシーンがすごく好き。

例えばわたしの生活においても、、若夫婦の妻が、赤ん坊を夫にけしかけながら声色を作り「もー、パパたまには早く帰ってきてくだちゃいよ」などと自分の気持ちを代弁している場面を見かけることはたびたびある。同じようなことは、赤ん坊でなくペットを介してもしばしばおこなわれるようである。ここで肝心なのは、コミュニケーションの媒介となるのが、ただの同居人でもなければある程度成長した子どもでもないということだ、媒介として有効なのは、言語が未発達な者に限られる。喧嘩のあと、直接謝りづらいのでメールや手紙で謝罪する、というのと方向性としては同じものなのだと思う。ワンクッション置くことで、自分の気持ちを素直に表現することへの気後れやテレが、ほんの少し緩和される。そういう意味で、この映画、ビアンカを通して自分の気持ちを表し、他者とのコミュニケーションを獲得してゆくラースというのは、決して突飛なキャラクターではないのだと思った。

しかし、アメリカの映画や小説でこういった個人のパーソナリティの問題を描く場合、必ず重視されるのが「家族」と「宗教」。同じようなテーマが扱われることは日本でも多いけれど、いわゆる「私小説」的に個人の問題として内面に向けてどんどん掘り下げていってしまう印象が強い。このあたりは国民性の違いなのか、それにしても他の国、ヨーロッパ等と比較してもアメリカの「家族」へのこだわりは格段に強いように思う。興味深いところです。