メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

ヨガと心身の健康について

不可抗力により午前中渋谷のスタジオにてヨガ。友人のバレンタインチョコレート購入に付き合い、そのままランチ。青山にて買い物後、夜は高校時代からの友人4人で、新丸ビルで食事。という、なんだか不似合いにも「愛読誌はHanakoです」といったタイプのOLのような休日を送ってしまった。

丸ビルにはたまに行くものの、新丸ビルには足を踏み入れるのすらはじめて。すごくかわいい洋服屋さんを見つけたのでまた行ってみようと思ったけれど、もしかしたらとても手のでない値段のものばかりだったりするかもしれない。新丸ビルとかヒルズとかには、雰囲気だけでとても買い物できない、場違いなものを感じてしまい、借りてきた猫のようになってしまう。よく考えたら売っているものはよそとそう変わらない場合だって多いのに、雰囲気とはおそろしいものだと思う。あ、でも、夕ご飯を食べたお店はおいしくて、けっこう安かったし、景色もすごくきれいだった。

またもや髪の短くなったわたしに友人が「あれに似てる」。「こけしでしょう?」「いやいや、あれ」。あれ=Perfumeのノッチ。彼女は今までわたしのことを「クッキーモンスターに似てる」「ちびのミィ(※ムーミンシリーズの登場人物)に似てる」等ろくな例えをしたことがないので、はじめて人間の名前を聞くことができたことは感慨深い。でもそんなこと言われたのはじめてだし、全然似てないと思うんだ。

お茶を飲みながら友人が、ある社会学のゼミを聞きにいったときの話をしてくれる。そこがわたしとも多少関わりのある場所だったこともあり、なんだかすごく複雑な気持ちになってしまった。例えば「わたしは長い間、自分が親に愛されていないのかもしれないと思っていました。なので、聞いてみました。結果、わたしはやはり愛されていなかったのだという結論に達しました」というような内容が学士論文としてまかりとおってしまう現状。社会学の中には自らを研究対象とする手法というのは確かに存在するそうなのだけども、それがただ「かわいそうなわたしのトラウマ」を再確認するだけの研究でも何でもないものに成り下がり、あまつさえその間違いを正す指導者に出会えないことは、もしかしたら彼女が親に愛されていないと感じていることと同じくらい不幸なのかもしれない。

最近保健師さんとメンタルヘルスについての話をしていて、いわゆる「現代うつ」と呼ばれるものの病質について教えてもらった。「全般的にやる気が薄い」「責任を他人になすり付ける」「万能感を持ち、なんだってやればできると思っている=自己愛が強い」。これらの特徴を持つ「現代うつ」の難しいところは「それが病気であるのか性格的な特徴であるのか切り分けるのが難しい」、そして、それを裏付けるかのように「旧来のうつ病には投薬がほぼ100%有効であるが、現代うつには必ずしも薬は効果を示さない」のだという。

ネットの普及と安易に関連づけるわけではないが、「かわいそうなわたし」を披露するためのハードルというのは、急激に低くなっている。かつてならば芸術に昇華でもしない限り誰も耳を傾けてくれなかった弱音を、今では誰でも自分を主人公として世界に発信することができ、またそれへの共感を得ることができる。誰だって(本人の意識としては)太宰にだってなれるし、トム・ヨークにだってなれる。それどころか、「かわいそうなわたし」を主人公にすることが許される場所をきちんと判断することができなくなり、彼らは日記やブログといった内的な場所(それだけなら何の害にもならないし、いい発散手段ともいえる)を飛び出して、「かわいそうなわたし」を社会に押し付け、認めさせようとしてしまう。蛇が自らのしっぽを飲み込んでいるようなものが論文テーマとして成立し、しかもそういった学生が多数いるためゼミが傷をなめ合うための集団療法室と化してしまう。なんだかすごく怖いと思った。ちなみにこれには自戒も込めています。