メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

どくろ杯|金子光晴

どくろ杯 (中公文庫)

どくろ杯 (中公文庫)

池の畔りの草叢に二人が足を投出すと、足もとから蛇が逃げていった。「そこに」と指さしながらわたしは、蛇を指すと指さした指が腐ると言われたことをおもいだし、指の腐るのを彼女にみせてやりたいとおもった。恋情よりも、心の苦しみを彼女に知らせようとしゃべっていたらしいが、なにをそんなにしゃべるたねがあったのか。いまも猶、しきりにしゃべりつづけている人生、しゃべり棄てたことばの量はながさにして、地球を何百回巻くことだろう。しかし、しゃべるにつれて、じぶんの値がさがってゆきそうで、私は、その都度じぶんがみじめだった。

金子光晴の、有名な自伝であり、諸国漫遊記である。三部作の最初である「どくろ杯」では、金子を旅にかき立てるに至る、詩人としての低迷状態から森三千代の出会いが多くを占め、後半からは、渡航した上海や蘇州、香港からシンガポールでの生活が描かれる。

詩集「こがね蟲」で文壇に認められたものの、その後行き詰まりを感じていた詩人・金子光晴は、女学生森三千代と出会い、恋に落ちる。燃えるような恋情、三千代の妊娠による退学、結婚、しかし蜜月は長く続かず、三千代と子どもを放り出して金子が上海に出かけている間に、彼女はコミュニストの大学生と恋に落ちる。詩人としてはほとんど機能しないどん底の状態で、愛なのかもわからない執着で金子は、三千代を引き止めようとするが、彼女は子ども可愛さに金子の元にとどまりながらも心は恋人の元に在り、頻繁に、堂々と家を空ける。切羽詰まった金子は、三千代が憧れている巴里に連れ出すことで彼女の心を恋人から離そうと試み、そこから5年にわたる海外漂流がはじまってゆく。

当時の社会がおおらかだったのか、芸術家コミュニティならではというか、日銭を稼いでは浪費し、ひとに金を無心してはまたそれを浪費する、という生活。そして、詩人として行き詰まっている金子は、冒頭のみ多少の詩作や、売文で日々の糧を稼ぐものの、そのうち他人の厚意にすがってばかりになり、さらにはそれらの人々を容易く裏切る。上海で食い詰めると、ポルノまがいの小説を裏で売りさばき、果てには文章ではなく素人絵を売りさばき小銭を得るようになる。

詩人への憧れもあって彼と一緒になった三千代にしてみれば話が違うわけで、理想主義のコミュニスト学生の元に走るのもある意味当然である。しかし、三千代は金子との離婚を選びはしない。それどころか、愛する子どもを置いて、彼と二人海の外へ出てゆく覚悟すら決めてしまう。森三千代という女性の屈強で泰然としたメンタリティは、同性ながら理解しがたいところがある。むしろ金子の「女の浮気と魅力とは背なか合せに微妙に貼付いていて、どちらをなくしても女は欠損する。欠損した女はいくら貞淑でも、茶碗のかけらほどの価値もない」という心情のほうがまだ理解できるような気がする。三千代の恋人の件があったからこそ、金子は彼女にひどく執着し、無謀な海外漂流に旅立ち、詩人として再生したのかもしれない。

何にせよ、手に手を取って地獄を生き抜く男女の姿は美しいし、そんな彼らの姿が在るだけで、地獄そのものすらグロテスクな美しさを持つ。汗のにおい、食べ物のにおい、汚物のにおい、腐臭、そんな、ひとの生きるにおいがぷんぷんと漂ってくる金子光晴の文章は、まぎれもなく「詩人の文章」だと思った。

タイトル「どくろ杯」は、上海で金子を訪ねてきた画家・秋田が持っていたもので、処女の頭蓋骨を切り、磨き、内側に銀を貼り作った杯である。ガラス吹き職人高田は、その「どくろ杯」に魅入られるが、とても買い取るだけの金はない。だったら自分で作ればいい、と軽い気持ちで口にした金子のもとをしばらく後に訪ねてきた高田は、自作の「どくろ杯」を携えていた。墓を掘り、処女の頭蓋骨らしいものを持ち帰り、加工したのだと言うが、それを部屋に置くようになってからどうも幽霊に取り憑かれたかのように心も体も優れない。恐ろしがる高田に付き添って金子は、「どくろ杯」を元の墓に埋めにゆく。気味悪く禍々しい、ほんの短いエピソードだが、この本に一貫して流れる空気や色がぎゅっと凝縮されていて、印象に残る。
ところで書中、金子が一時期居を構えていた場所というのが偶然にも現在わたしの住む近辺だった。この辺りを、若き日の金子光晴が歩いていたのかと思うと慣れた風景が少しだけ違って見えてくる。
次は「ねむれ巴里」を読みます。