メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

ねむれ巴里|金子光晴

ねむれ巴里 (中公文庫)

ねむれ巴里 (中公文庫)

先日の「どくろ杯」に続く海外漂流三部作の二作目。妻三千代を先にパリへやった金子は、東南アジアで金を作り、パリへ向かう。個人主義の欧米での暮らしはシビアで、そこでも夫妻は貧苦に喘ぎ、果てにはちんぴらまがいの仕事をしながら帰国費用の見込みも立たず2年を過ごす。なんだかんだとアジア特有の家族主義、同胞主義に守られていた上海暮らしと、本作のパリ暮らしはずいぶん趣が違う。戦前にパリに向かう日本人がそうあったとは思えないが、作中には「パリ在住の日本人300人の名簿」との記述があり、芸術家を志すもの、学問を志すものなど多くの日本人の名が見える。しかし、文化的な相違のほかにもしかしたら人種差別的な背景などもあったのかもしれないが、名の知れた作家たちの多くはパリには長く滞在することなく帰国していたようである。名前の出るあまたの芸術家の中で、パリで名をなしたのは藤田嗣治くらいだろうか。

極限の生活、最悪妻を売る、もしくは自分の身を売る可能性にまでゆきあたるほどの地獄の中で、日本にいた頃より金子がずっと抱えてきた三千代に対する/女そのものに対する複雑な思いは変化したようであり、そこにはフランス人の影響も大きかったように見える。全体的に金子のフランスに対する評価は厳しいものだけども、この憧れと憎しみの合い混ざった感情は、今の日本人とあまり変わらないものかもしれない。

本書序盤にこんなエピソードがある。森の中のベンチに、80歳をとうに越しているであろう、フランス人の老紳士と老婦人がよちよちとやってくる。そして、老紳士は老婦人をかばい、ベンチに並んで腰掛ける。その光景に、金子はこんなふうに思う。

あの色情狂のようなフランス人の、さいはてのすがたがこれであることは僕らには、脅威であった。この老婆の小娘であったとき、愛情を訴えたのとおなじ、いんぎんさで、彼女のために心をつかっている彼の姿は、いじらしい程で、みている僕は、彼らの神に対して憤りをさえおぼえるほどであった。このふたりのおなじ愛情を、ここまで保留させたことは、神の意地悪としかおもえなかった。僕は、傍らの彼女が、やはり瞠目してながめているのをみて、この人生で、こんなことが窮極の幸福であるとおもわせたくなかった。これは、仏舎利であり、ぼろぼろになって猶、のこっている人間最後の文化の追跡をみているようでもあった。

30代でこの文章を書いた金子が、妻とともに年老いてこの老紳士・老婦人と同年代になったとき、夫婦というもの、愛情というものに対してどのような思いを持っていたのだろうと興味深く、そのあたりまで言及された著作を求めてみようと思う。

本を読むというのは面白いもので、ついこの間までわたしにとってはただの固有名詞であり教養のひとつでしかなかった「金子光晴」という単語が、あっという間に血と肉を持ち、こんなにも生々しく肌身に触れるほど近くに感じられている。