メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

謎の1セント硬貨|向井万起男

謎の1セント硬貨 真実は細部に宿るinUSA

謎の1セント硬貨 真実は細部に宿るinUSA

向井万起男、と聞いてすんなりとあの個性的な風貌が浮かんでくるのはわたしと同世代あたりまでだろうか。向井千秋さんが最初に宇宙に行ったのが1994年、二度目が1998年、つい最近のことのように思うが、なんと十年以上も前のことだ。

向井千秋さんはアジア初の女性宇宙飛行士であり、万起男さんはその夫。千秋さんがはじめて宇宙に行くことになったとき、東京とヒューストンで別居生活を送る夫婦の姿は、働く女性の新しい家庭像といった視点でずいぶん取り上げられていた。そして、万起男さんが書いた本のタイトルが「君について行こう〜女房は宇宙へ行った〜」だったことから、なんとなく、スーパーウーマンを陰で支える夫的なイメージがついてしまったが、実際のところ慶応大学医学部の准教授である万起男さんは、専門分野では世界的な学者であり、評論家並みに大リーグに詳しいという凄い人である。ついでに(本書から得た知識になるが)「マタイによる福音書」を暗記していて、エッセイストとしてもかなりのもの。これまで万起男氏の著作を読んだことがなかったわたしは、偶然手にしたこの本を読んで、面白さに驚き、彼のことをおかっぱに口ひげの変な医者だとばかり思っていたことを反省した。

「謎の1セント硬貨」は、妻に会うためにたびたびアメリカを訪れ、主に車を移動手段にアメリカ国内を旅行するなかで万起男さんの興味を引いたものについて書いたエッセイだ。ただし、普通のアメリカ旅行記などではない。あるクリスマスに偶然存在を知った「スチール・ペニー」に興味を持ち調べる中で、万起男さんは「アメリカ人のホームページに質問を送るとたいてい返事が来る」ということに気づく。そして、アメリカで気になったことについて、答えを知っていそうなホームページにどんどん質問メールを送るのである。ときにはぶしつけを通り越して無礼に思える内容もあるが、いたって真面目に、誠実に、万起男さんはメールを送る。

わたしの書き方だと他愛ない本のように思われるだろうが、ところがなかなか奥深い。万起男さんの鋭い洞察力や、もともとの博識や知性によるところが大きいのだろうが、「ちょっと気になったこと」を調べるうちに、それはアメリカそのものについて知ることになり、また「アメリカ人に訊ねる」ことで、アメリカ人そのものに近づいていく。最初に興味を持ったのは「ポパイの像」だったり「成功しなかった政治家」だったり「好きな大リーガーが子ども時代に通った野球場」だったりするのだが、着地地点は、第二次世界大戦の消えない傷だったり、人種差別、宗教やアメリカの軍事政策にまで至る。けっして小難しい書き方も偏った書き方もしていない。万起男さんのアメリカへの視線は、好意に満ちていると同時に、おそろしいほど冷徹でもある。

わたしはアメリカという国が特に好きな訳ではなかったし、興味もなかった。ヤンキーとジャンクフード、おおざっぱで品のないイメージがつきまとっていたからだ。実際今も、アメリカに行くくらいならヨーロッパに行くだろうし、アメリカの洋服を着ることもあまりない。ただし、アメリカの映画を観るようになり、アメリカの小説を読むようになったせいか、この国そのものには非常に興味がある。とりわけ強く意識するようになったのはやはり9.11以降かもしれないが、アメリカそのもの、アメリカ人そのものから感じ取れる強烈なアンビバレンス、何がアメリカ人を引き裂いたのかということに深い関心を持っている。そういったわたしの興味に対して、この本が(決して社会学的な切り口でなく)与えてくれたものは大きい。というか、はっきりとしたかたちをとってはいないが、ある種の答えそのものが潜んでいるのではないかと思えるほどだ。

全体を通して語り口は軽妙で、内容もウィットに富んでいる。「アメリカとは」なんて小難しいことを考えなくとも、お酒の席でつかえるマニアックなアメリカ豆知識なんかも入手することができる。例えば「アメリカにパリがある」と言われて、これだけなら皆さん、「そんなこと知ってるよ」と思うでしょう? 映画「パリ、テキサス」の影響で、テキサス州にパリという地名があるということはすっかり有名になってしまった。しかし、この本に出てくるパリは、テネシー州にある。最初「テネシー州のパリ」と出てきたとき、てっきりわたしはテキサスの間違いだと思い、何度も首を傾げた。しかしなんと、テネシーどころか、アメリカ全土に「パリ」は15カ所もあるのだと書いてある。……と、この豆知識に感心した方は是非「謎の1セント硬貨」を読んでみることをおすすめします。