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メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

翻訳夜話|村上春樹/柴田元幸

本のはなし

翻訳夜話 (文春新書)

翻訳夜話 (文春新書)

本の中でも小説がとりわけ好きなのだが、作者にはそんなに関心がない。一方翻訳家には割と興味がある。作者というのはある程度小説から透けて見えるし、むしろ小説から得たイメージのためにもあまりバックグラウンドを知りすぎない方がいいと考えている節があって、だからあまり興味がないのかもしれない。翻訳家については話が違って、もちろん文体も癖も感性も、いろんなものがテキストに投影されていながら、あくまで小説自体は作家のものなので、訳された小説を通して翻訳家の人となりに触れることはたやすくない。よって、隠れたものに興味をそそられるという気持ちがあるのかな。あと、翻訳家というのは基本的にセレクトショップのバイヤーみたいな要素もあるので、何冊か読んでいいなと思ったら、その人が訳しているからという理由で本を手に取ったりもする。そうすると、なぜ、どういう基準でこの人はこの本を選んだのかな、と気になってきたり。きっと、作家のことは「作家様」だと思っているんだけど、心のどこかで翻訳家のことは「読書好きな仲間」と思ってしまっているんだろう、わたしは。

誰もが知る作家であり翻訳を手がけた作品も多い村上春樹さんと、多分日本で一番「訳者の名前で本を売ることができる」英米文学翻訳家の柴田元幸さん。おふたりが、東大で柴田先生の講義を取っている学生たち、翻訳学校の生徒たち、新進翻訳家たち(あの岸本佐知子さんのお名前も)、をそれぞれ相手にした3つのフォーラムの内容に加え、同じ作品(レイモンド・カーヴァーポール・オースターを1編ずつ)を競訳したものもおさめられている。村上さんと柴田さんの翻訳のスタンスには似通ったところもあれば異なったところもある。たくさんの訳で共同作業をされてきたおふたりだからこそ、「作家」「学者」のスタンスの違いや、互いの翻訳スタイルなどよくわかったうえでお互いにツッコミを入れたりもしていてとても面白かった。小説論、語学論として興味深い部分も多かったけれど、やはり「海彦山彦」と題された競訳の章。理屈じゃなく、フィジカルなところで、訳者によって小説のもつ空気感や文章の意味すらまったく変わってしまうことを思い知らされ、強烈。

今までにも同じ本を複数の訳で読んだことはあったが、こんなふうにせーので両方読む、ということはない。カーヴァーを先に読んで、村上さんの訳はやはり「村上春樹の文章」だな、と思った。その村上さんの訳からハードボイルドというか、割と硬質な印象を与えられ次に柴田さんの訳を読んだら、今度はちょっとすっとぼけた、シットコムみたいな空気を感じる。同じ作品なのに。で、次のオースターに進むと、不思議なことに今度は村上訳の方が柔らかくて、柴田訳の方がかっちりしている。同じ単語でも違う訳し方をしたり、同じセンテンスでも強弱の具合が全然違ったりして、それが重なると本文の意味合い自体が違って見える箇所もある。どちらかが間違っているわけではなくて、ある単語Aを全く同じ内容の別言語におけるAに置き換えることが可能なケースというのがそもそもほとんど存在しないのだろう。一番確かそうに見える名詞にしたって、たとえば日本人の「お風呂」とアメリカ人の「bathroom」では全然意味合いが違っているわけで、訳すというのはある単語Aを、別言語のA′〜A′′(Aと近しく思える範囲)のうちのどこか一番似つかわしいところに当てはめる作業なのかもしれない。ちなみにわたしはけっこう柴田さんのカーヴァーも良いなと思ったんだけど、どうだろう。

村上さんが翻訳について語っているのははじめて読んだんだけど、翻訳をする根底に学びや愛の他に、社会とつながりたいというコミュニケーション欲求みたいなものが感じられたのはちょっと意外だった。何度も書いているけれど、わたしは中学生ではじめて村上春樹を読んで、つまらなくて放り出した。数年後に河合隼雄さんの本で紹介されていた「めくらやなぎと眠る女」を読んで、それをきっかけに少しずつまた村上さんの本に手を伸ばすようになり、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」で完全に落っこちた。幼かったせいなのだろうけども、最初読んだとき変に欧米的で鼻につくと感じた作品世界が、実は小道具(パスタとかサンドウィッチとかジャズとか)がアメリカナイズされているだけで、他の作家と比較してもより日本的なくらい、日本的だったこと。クールで個人主義ないまどきの若者を書いているように思い込んでいたのが、実はすごく社会的で同時代的で、コミュニケーションを意識した話だったこと。読み返すたびにどんどん印象が変わって、これからも村上さんのイメージはわたしのなかでどんどん変化していくのかもしれない。

それでも「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が一番好きなことだけは、この先もきっとずっと変わらない。本当に好きで今も年に一回くらい読み返す。そんなに読み返しているのに、すぐに内容を忘れてしまって、思い出そうとしても部分的にしか浮かんでこない。頼りない「好き」の手触りだけが残って、ディテールが思い出せないからまた読みたくなる。もしかしてわたしはこの本がとても好きだから、読み返すためにわざと中身を忘れているんじゃないかと疑ってしまうくらいだ。