メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

チョコラ!

ケニアのティカという街の、スラムやストリートで暮らす子どもたちの姿を中心としたドキュメンタリー映画。チョコラ、というのはスワヒリ語で「拾う」を意味し、くず拾いで糧を稼ぐ底辺層への侮蔑的な意味合いを含む言葉なのだという。

フライヤーを最初に目にしたときは、これが日本人の映画だとは思わなかった。スチールの少年は、哀れみを感じさせることない力強い目をしていたし、添えられたタイトルのフォントやキャッチも、明るく前向きでポップなものだったからだ。特にテレビの特別番組などでは顕著だけども、途上国の社会問題を扱うドキュメンタリーというのはおおむね、重い色の空のもと映し出される痩せこけた人々の目は陰鬱なまでにうつろで、ただそれを見る側に痛ましさと哀れみだけを呼び起こす。もちろんそれはひとつの真実であり、また、人々の関心を引き援助の手を出させるためには有効かつ必要な画であるに違いない。けれど、ひたすら同情だけを呼び起こす映像に浸っていることで、見えなくなってしまうものもある。

少なくともわたしは、彼らが表層的には自分とまったく異なる暮らしを送りながら、根本では同じ喜びや悲しみを味わいながら日々を送っている、彼らは彼らの社会の中で生き、生活を送っているということを忘れてしまっていたような気がする。貧困、暴力、ドラッグ、蔓延するエイズ、遠く見える問題の中には決してそれらだけが原因ではない親子関係の不和や、思春期特有の反抗心などが見え隠れする。先進国の人間には哀れむべき子どもとして受け止められるであろう少女(彼女の母はシングルマザーでありまたHIVポジティブである)は、食前に捧ぐ祈りのなかで、病院にいるひとびとの健康を願い、「コバの病気がはやくよくなりますように」と、目の前にいる小林監督(腎臓を患っている)の健康を願う。監督は現地の言葉を解さないため、目の前にいながら、彼女が自分のために祈っていたことを知らなかった。一年後、編集作業中に、祈りの文句の中身を知ったとき、とんでもないショックを受けたのだという。

鮮やかで生き生きと美しい映像に、添えられる親指ピアノの音色も素晴らしい。シンナーを取り上げられて泣いていた少年がふっとこぼす笑顔や、鶏や猫と一緒に庭で食事をする幼児の姿にも、不謹慎かもしれないが、その美しさにはっとさせられた。生きている、生きようとしているからこその美しさ。土地や人や生活様式の美しさを知って、敬意を払うことは間違っていないのだと思いたい。