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メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

田舎の夏は

夏休みがはじまったとあって街は賑やか。千駄木で待ち合わせ昼食をとり日暮里まで汗をかきながら歩くあいだ浴衣姿とすれ違う。小雨が降り出しそうなので早足になる帰り道、東京駅の赤レンガ越しに2本の虹がかかっている。久しぶりに虹を見た。トリコ仕掛けにされてしまう。

夜、ちらし寿司を作ろうと思い立ち、しくじった。実はわたしは炊飯器を持っていない。自分用にはほぼ玄米しか炊かないので、圧力鍋を愛用しているのだ。ときたま白米が必要になると、ステンレスの両手鍋を使う。以前、白米も圧力鍋で炊こうとしたら、母に「白米は圧力鍋じゃあ駄目よ」と止められ、そんなものなのだと納得していた。しかし最近ネットで「白米を圧力鍋で炊く」というページを見つけてしまった。玄米に比べて半分以下の時間、あっという間に炊きあがるのだという。そんなに簡単なのかと心惹かれ、ちらし寿司が食べたくなったのをいいことに試してみることにした。ちなみに、わたしは玄米が大好きで大抵の料理は玄米ですますけれど、玄米酢飯だけはいただけない。あれは、白米に限る。

挑戦の結果、3合もの白米はなんとも悲しい、べっちゃりと重たく異常にもちもちした、なんともいえないゲル状の物体と成り果てた。全体的にべとべとしているのに底にはおこげができているところからして、火が強かったのだろう。結局ちらし寿司は断念。米は洗って偽リゾットに転用されたが、これも決しておいしいとはいえない代物だった。3合も炊いてしまったので、残りをどう片付けるべきか気が重い。

母の実家には「おくど」があって、盆正月など特別なときには祖母が薪をくべ、お釜で白米や炊き込みご飯を炊いてくれた。特に地鶏とごぼうの炊き込みご飯はおいしくて、香ばしいおこげの部分は取り合いになった。夏には家で起した酒種で酒まんじゅうを何百個も作り、お盆の客に備えた。まんじゅうの底に敷くのは紙でもプラスティックでもなく、畑からとってきたトウモロコシの葉。鈴虫の音。キュウリの牛に茄子の馬。家の風呂場は、薪と灯油ボイラーの両方を熱源にお湯を沸かすことができた。薪で湧かすときは温度調節が難しいので、子どもだけで入浴はしないのだという決めごとがあった。

お風呂といえば母の実家に隣接する本家は、わたしが小さい時分(昭和50年代後半)まだ五右衛門風呂が現役だった。何度か入りにいったことがあるが、板を上手く沈められる自信がなく、やはり大人の膝の上でびくびくしていたような気がする。この本家はお手洗いも屋外にあり、まさしく「御不浄」という単語がふさわしいように思える小さな木小屋には恐ろしくて入ることができなかった。裏庭には牛がいて、においとハエには閉口したものの、赤ちゃん牛が産まれたときはかわいくてかわいくて、世話を手伝った。

売りにいく途中の牛から蹴落とされ、トラックから落下した本家のおじいさんが大けがをしたこと。本家のおばあさんがおしゃべりだったこと。夏休みはずっとずっと田舎で過ごして、川へ行って山へ行って、それでも時間が余ると退屈を紛らわすために遠い異国の物語を読んだ。本家のおじいさんはずいぶん昔に亡くなった。本家のおばあさんはずいぶん長生きをして数年前に亡くなった。昨年わたしの祖父が亡くなった。先週、わたしは老人病院にいる祖母に、クレーのハートの絵はがきで手紙を書いた。

わたしの夏休みそのものだったあの家は、もうからっぽになってしまったんだと思うとなんだかしんみりしてしまう。ときおり母が、病院から連れ出した祖母を連れ一泊する以外、誰もあの家で寝泊まりはしていない。来月、祖父の一周忌をおこなう際は、久々に片付けて、たくさんのひとを招くのだろう。人の気配が完全に消えてしまわないうちに、少し重たいけど、今度の帰省のときはちゃんとカメラを持って帰ろう。