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メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

罪と罰|ドフトエフスキー

本のはなし

罪と罰〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

罪と罰〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

思春期から青年期にかけての若者にとりわけ顕著である「肉体と精神の不一致」。ラスコーリニコフの肉体は、物語冒頭から最後まで、アリョーナ殺害の計画を立てているときからそれを実行しているとき、自らに向けられた疑いの目と闘っているときも、常に良心に寄り添っていた。しかし彼の精神、思考、思想は、肉体とは相反し、選ばれた人間による手段としての殺人を肯定し続けようとする。この、強固なる肉体と精神の反目を乗り越えそれらの融合をみるまで、というのがわたしが最初「罪と罰」に抱いたイメージで、今回新訳で読んでも、根本的な印象自体はそう変わらなかった。だから、ラスコーリニコフが「復活する」「生き直す」というのは理屈としてはよくわかるんだけど、感覚としてすっかりきれいにはまりこんでしまうものではない。

以前、ロシアでの講演かなにかを文字に起したもののなかで、亀山先生は「罪と罰は、14歳で読むべきだ」と言い切っていた。これは、先生ご自身が14歳で「罪と罰」を読み、物事の善悪や良心そのものに訴えかける深い衝撃を受けた体験に基づいた発言だった。14歳で「罪と罰」を読めば、無闇にひとを殺めるような若者にはならない、というところまで踏み込んでいたかは記憶にないが、概ねそんな趣旨である。正直わたし自身は、「罪と罰」を読んだくらいで倫理観にそれほどの影響を受けるような感受性の強い子どもは、そもそも人を殺したりしないと思うのだけれど……。ともかく、この新訳のテンポの良さ、スピード感。単純な部分だとロシア人の識別にあたってわたしたちを悩ませる要因である多種多様な「愛称」を原則一人ひとつに統一してしまったところなども含め、ただひたすら「読んでほしい」という気持ちと工夫が伝わってくる。「罪と罰」という小説が一部の読書好きや研究者だけのものでなく、もっと多くのひとに、若い世代にも読んでもらえるようにという強い強い気持ち。それは率直に、尊敬できるし感動できる。

わたし個人として、今回「罪と罰」を新訳で読もうと思ったきっかけは、少し前に亀山先生のお話を聞く機会があったからだ。研究者ならではの解釈をいろいろと耳にすると、どうしても本文と照らし合わせたくなる。他人の解釈をひとつひとつ裏付けながら読んでいくというのはあまり良い読み方ではないと思うので、こういう読み方はたまにで十分だけど、おかげでいろいろと細部にまで目を向けることもできたのは大きな収穫だった。

しかし、ルージンは確かに救いようのない俗物だけど、わたしは不思議とスヴィドリガイロフのことは悪人だとは思えない。亀山先生はかなり強硬な「スヴィドリガイロフ真っ黒派」であるが、その視点に立って読もうとしていたはずの今回も、わたしはやっぱり彼のことを、変態だと思いこそすれ悪人だとは思えない。なんでかなあ。