メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

響きと怒り|ウィリアム・フォークナー

響きと怒り (上) (岩波文庫)

響きと怒り (上) (岩波文庫)

響きと怒り (下) (岩波文庫)

響きと怒り (下) (岩波文庫)

サンクチュアリ」の感想を書いてから17ヶ月、ようやくの、再びのフォークナー。読みはじめの一瞬、一人称に重ねた自分の立ち位置がわからなくなり、混乱しながらページを捲るうちに、これは知的障害を持った青年なんだと気づく。

3人の兄弟、クエンティン、ジェイソン、ベンジーの目から見た娘キャディの姿を軸にして、南部貴族コンプソン家の斜陽が描かれる。ベンジーとクエンティンの章で用いられる語りの手法は、普段わたしたちが思考するときそのままに、現在、過去の様々な時点の記憶、思念へと、描写がとめどなく行きつ戻りつする。「思考の流れ」の代表とされるジョイスを読んだことないわたしにとって、いくらかでもこれに近い読書体験を挙げるならば、ニコルソン・ベイカーの「中二階」だろうか。しかし、こちらの飛躍はもっと頻繁で、もっと多方向を向いている。最初こそ戸惑ったが、いくつかのポイントとなるイベントを把握したあとは、ずいぶん読むのが楽になった。

3兄弟それぞれにとってのキャディ。クエンティンにとっては、愛情の対象であり、偶像であり象徴。ジェイソンにとっては自分の可能性を打ち砕いた憎むべきあばずれ。ベンジーにとっては「木のにおい」のする、強く優しく献身的な母性。それぞれの章で語られるキャディのイメージはまるでばらばらで、読み進めるにつれ、一枚一枚レイヤーを重ねていくかのように彼女がはっきりとした立体的なすがたを見せはじめる。しかし、キャディ本人が語る章がなく、あくまで彼女は「誰かによって語られる」存在であるせいか、ストーリーの中心であるキャディは、いくら多層的な、立体的なすがたを持とうとも、あくまでそれは生き生きと描かれた平面に過ぎない。彼女が血肉を持って生きている、という感覚は不思議と呼び起こされなかった。

南部貴族の貞淑を求められ、しかし、奔放なキャディは身を持ち崩す。家を出て、夫に捨てられ、子どもを失い、放浪を余儀なくされる。そんなキャディはフォークナーにとって「持つことのなかった妹」であり「失われた娘」であり、悲惨と喪失の象徴であったらしい。しかし、不思議とわたしはそのキャディから「たったひとりコンプソン家から自由になった存在」としての強さや希望を感じてしまう。「サンクチュアリ」のテンプルを、言葉を失ってゆく被害者として受け止めることができなかったように、「八月の光」のリーナに輝くばかりの希望と開けてゆく世界を感じたように。