読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

暴力についての2冊、そして考える

暴力の子供たち―コロンビアの少年ギャング (朝日選書)

暴力の子供たち―コロンビアの少年ギャング (朝日選書)

人に手をあげたことがない。犬猫を殴ったことも、一度としてない。やわらかくて温かいものに拳を叩き付ける感触を想像するだけで、なんとも堪えがたい恐怖がわき上がってくる。けれど、別にそれが美徳だとも思ってはいない。昔飼っていた犬が散歩中、落ちていた吸い殻を口に入れた。「ダメ、ダメ」と言ったところできくわけもなく、焦るわたしを尻目に母は犬の頭にごつんとひとつげんこつを落とした。反射的に犬は、吸い殻を口から落とした。万事がそうともいえないが、何かを育てたり守ったりするために、拳を振り上げる必要に迫られることもある。

わたしの場合能動的に非暴力を選んでいる訳ではなく、ただそういう機会がなかったから、結果的に暴力や意地悪と縁遠く生きてきたのだと思う。子どもじみた短期間の仲間はずれくらいはあったかもしれないが、いじめにあうこともなかった。他人に虐げられること、悪意を受けること、叱責されるような経験もほとんどなかった。だから、わたしには人を殴る必要も、痛めつける必要も一度としてなかった。今までは。おそらくそういう場に、立場におかれたら、わたしの正義感はあまりにちっぽけで、簡単に消えてしまう。わたしの心はとても弱いし、わたしの欲望はとても強い。暴力についての本や映画を進んで求めてしまうのは、自分の頼りなさを自覚しているからだ。他人の暴力、悪意、残酷さに対して嫌悪を催す自分を確かめるため、まだ自分が「こちら側」にいることを確かめるため。情けないけど、多分それが理由だ。

世の中はときに、いとも簡単に、紙を裏返すくらいのたやすさで、ひっくり返ってしまう。裕福で、学もあるジューイッシュがある日突然身ぐるみはがれて押し込められてしまうように。だから、わたしのこの平穏な生活だって、どこまで信用できる確かなものかわからない。今までは活字や映像を通して触れてきた、現在や過去の、まぎれもない事実。わたしは、そこに身を置けば、人を陥れるかもしれない、殴るかもしれない、殺すかもしれない。同じように、極限状況におかれたら、わたしは人を食べるかもしれない。そういうことを考えると怖くて怖くて仕方がない。