メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

マラドーナ|エミール・クストリッツァ

クストリッツァが撮ったマラドーナのドキュメント、と聞いたときにはまったくイメージがわかなかった。クストリッツァが元々はサッカー選手を目指していたということも知らなかったし、ボスニア出身の彼があえてアルゼンチンのマラドーナに注視するのもよくわからなかった。高校生の一時期熱心に観戦したものの、その後は特にサッカーに興味を持つこともなくきたわたしはマラドーナ自体についても、選手としての姿より肥満や麻薬中毒といったスキャンダルのイメージを強く持っていた。

そんなこんなで、はたして自分にこの映画が楽しめるのか、不安半分のなか映画がはじまった。しかし、冒頭で突然にぎやかなバルカンミュージックが流れ出す。クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラが演奏をしているステージに、マラドーナが飛び入り。「ライフ・オブ・ディエゴ・マラドーナ」みたいな作品をイメージしていたところに予想外の展開だったけれど、嬉しくなって楽しくなって、もうそれでスクリーンに飲み込まれてしまった。

名選手の栄光と挫折、といった一元的な描き方ではない。サッカーの神様としてのマラドーナ、家族に愛情を注ぎながらも麻薬で弱さを紛らわせようとするマラドーナ、貧困の中で育った子どものままのマラドーナ、そして、反資本主義、チェ・ゲバラカストロを信奉しイギリスやアメリカを憎む革命家としてのマラドーナの姿があった。そして、自らの映画の主演俳優としてのマラドーナを見つめるクストリッツァ。内容としては非常にヘビーな部分が大きいのだけども、あらゆるところで流れるアルゼンチンやバルカンのにぎやかな音楽のおかげもあり暗さはあまり感じられない。インタビュー映像や密着映像の他に、マラドーナの現役時代のゴール映像やファミリームービー、クストリッツァマラドーナと重ねている今までに作った映画の登場人物たちとさまざまな場面、「マラドーナ教」なるディエゴを崇拝する人々のセレモニー、さらには英国とアメリカを皮肉るアニメーションまでさまざまなフィルムがめまぐるしく現れ、それがまた、マラドーナを多面的に見せると同時に、王道的なドキュメンタリーとは違った印象を残す。「マラドーナ」そのものというよりは、「クストリッツァから観た(彼の映画作品の主人公としての)マラドーナ」を強く感じる映画だったので、サッカーファンよりは、クストリッツァファンに受け入れられやすい作品なのかもしれない。

フォークランド紛争の復讐があの「神の手」ゴールだ、と言い切るマラドーナ中南米諸国も、中欧東欧の国々も、周囲の列強国からの支配、搾取の歴史を持つという意味では、同じようにアメリカや西欧諸国への不信を抱えている。それが、クストリッツァマラドーナに抱くシンパシーの、ひとつの理由である。

ユーゴ空爆の時期、ピクシーがピッチでユニフォームを脱ぐと、シャツには空爆反対のメッセージが書かれていたことがあったっけ。確かピクシーはあのとき、何らかの懲戒を受けた。スポーツと政治は関係ない、とよく言われるし、そうあることは理想なんだろうけども、実際はそうではない。まぎれもなく今も、国際大会は国威を示す場として機能している。知名度のある選手たちが(特に祖国が不幸な状況にある場合)その立場を利用して声を上げることが責められるのも、何か違っている気がする。そもそも映画祭だって、ノーベル賞だって、国際的に何かの優劣を決める場所なんて、すべて政治と切り離すことなんてできやしない。

この前日に観たメキシコ映画の中で、アメリカによるメキシコ搾取について語られるワンシーンがあった。かつてアメリカ企業はメキシコの油田を掘りまくり、利益を吸い上げていた。メキシコ革命により政府が国内のすべての油田を接収したことに触れ、ざまあみろ的なことを言われたアメリカ人は「アメリカにはまだまだ別の手がありますよ」と皮肉で返す。そして、「マラドーナ」では、アメリカがメキシコの労働力を吸い上げている様が語られる。映画内の反ブッシュ・反FTAAイベントでは、あのチャベスとモラレスがなかなかいい演説をしていて、「黙ったらどうかね」でへこまされたイメージしかないチャベスの好感度がうっかり上がったりもしたんだけど、こういう問題はアメリカ側と反アメリカ側それぞれの立場に立つとどちらの言い分にもうなずける部分があって、とても難しい気持ちになってしまう。