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メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

ふたつの「プレシャス」

とても楽しみにしていたので、映画「プレシャス」は公開初日にシネマライズで観た。読み書きもできない黒人少女プレシャスは16歳なのに中学生で、しかもその中学校すら退学になってしまう。理由は「2人目の子どもを妊娠しているから」。12歳のときに産んだ娘も、今おなかの中にいる赤ん坊も、実の父親からのレイプによって授かった子どもである。そして家庭内での性的虐待を止めるどころか、プレシャスのことを「夫を奪った淫売」として憎み虐待しながらも、生活保護を受ける手段として利用する母親。

絵に描いたような悲惨の中、「代替学校」で出会った教師や友人たちの助けを借り、学ぶことへの挑戦をはじめたプレシャスは少しずつ自立し、前を向き、自らの手で未来を切り開こうと歩きはじめる。重い話の中でもプレシャスの思い描く輝かしい世界の描写や、まさに「光」であるレイン先生や友人たちとの場面など、過度に暗くなることのない「人間讃歌」であることが素晴らしかった。

残念ながらプレシャスのような境遇の子どもは現実にもいて、だからこそこの映画の「ファンタジー」は、彼女そのものについてというよりはむしろ、彼女を支援する人や物事の側にあるのだと思う。プレシャスは16歳なのに読み書きができない。これはひとり目の出産による教育のブランクだけが原因なのではなく、「おまえはダメだ」「何もできやしない」と罵倒し、「学ぶこと」それ自体を嫌悪する母親に大きな原因がある。母親は、ただ殴る蹴るの肉体的な暴力を振るうだけでなく、プレシャスの教育を否定し、自分と一緒にくだらないテレビ番組を観させ、おそらくは《女として醜くなるように》という心理から過剰な量の食事を強要し肥満させる。自分だけがかわいくて可哀想だというエゴイズムからは抜け出すことができない彼女はまったく「母親」としては機能していない。

生活保護が貰えればいい」という思想にどっぷり浸かって、学びはたらくロールモデルを持たないどころか勤勉さへの反抗ばかりを植え込まれた子どもが向上心を持ちつづけるというのは、そもそも簡単ではない。そして、家族以外に向上心を育て守ってくれる人と出会えるというのも容易いことではない。くじけず前に進むプレシャスと、彼女を支える人々とのやりとりはまさしく「社会福祉の理想としてのファンタジー」だった。あんな風に人が救われ、文化的貧困の連鎖が止まってゆけば素晴らしいんだけどなあ、と帰り道少し寂しい気持ちになった。

サファイアという女性が書いた原作小説もその後読んでみたのだけども、こちらは映画以上に実母の暴力がひどい。父だけでなく母からの性的暴力があることはかなりショックだった。映像にするにあたっては、やや弱められた「書くことによる自我の確立」というテーマが小説では強調されていて、小説自体がプレシャスが自分について書き付けたもの、という設定。「アルジャーノンに花束を」のように、当初は幼稚だった文章が、彼女の学習が進むに従って徐々に洗練されていくという手法は目にもわかりやすく良かった。

しかし映画は神の視点を持ち小説はプレシャスの独白であるためなのか、かなり印象の異なる部分もあった。中でも、プレシャスと面談を重ねるソーシャルワーカーのミズ・ワイズ。映画でマライア・キャリー演じる彼女は、将来像についてプレシャスと考えの折り合わない部分はありながらも、基本的にはプレシャスのことを思い、彼女の抱える家庭問題についてなんとか助けになろうとしているようだった。一方小説においては頭の固い、プレシャスの成長を阻害する、ちょうど教師ミズ・レインの対極をなすようなキャラクターとして描かれているように見える。

また小説では自我の目覚め、社会運動への参加に重きが置かれているため、なんとなくわたしは、アプトン・シンクレアの「ジャングル」を読んだときのような印象を強く持ってしまった。あくまで個人的な感想としては、映画の方が性善説でお花畑的展開ではあるんだけど、作品としてすっと入り込んでくる光や強さを持っていて、好きかなあ。