メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

路上は危険にみちていた

わたしが子どもの頃、路上というのは今よりももっとずっと危険に満ちていた。今みたいに舗装がきれいではなかったし、バリアフリーでもなかった。蓋のついていない側溝がたくさんあって、雨の日にはじゃぶじゃぶと溝の中、流れに逆らって歩く子どもがかならずいた。わたしが敏捷でなかったからかもしれないけど、段差につまずいて転ぶこともあったし、側溝にはまって小さなけがをすることも多かった。春には街路樹から毛虫が降ってきた。梅雨には蛙が、真夏にはミミズがアスファルトの上で死んでいて、それらを避けて歩いた。父の転勤で田舎町に住んでいたとき、幼稚園の帰りの路上でイタチの死骸を見つけたこともあった。なぜか片付けられることはなく、ぬいぐるみのようにかわいらしい姿が蛆に覆われぺしゃんこになっていくのを毎日、恐怖と興味入り交じって観察した。

だが、こんなにも危険と冒険に満ちた路上で一番目を引くのはあれ、犬のふんだった。

フロイトがなんちゃらとかそういう御託は置いておいて、子どもはやたらと排泄物に反応する。特に幼稚園生〜小学生にとって、排泄物というのは看過し難い魅力を持っているようで、路上に犬のふんを見つけただけで大騒ぎ。誰かが踏みつけようものなら、狂乱状態である。「汚い!」と大げさにからかいの声を上げる者、彼らの世界にしか存在しない「バリア」なるものを周囲に張り巡らせ汚れが伝染しないよう身を守る者。踏んでしまった子どもも、悔し紛れに汚れを伝染すべく他の子に躍りかかってみたり、からかいを真に受けて泣き出してしまったり……。当時はまだ、ペットのトイレを始末することが今ほどエチケットとして徹底されていなかったし、野良犬もそこらにいた。今とは比べ物にならないくらい犬のふんとの遭遇率は高く、その度に子ども達はお祭りのように騒いだ。

いつの間にか世の中も変わり、トイレの始末は飼い主にとって当然のマナーとされているし、(決して楽しい仕事ではなかっただろうけども)公衆衛生のための保健所の尽力により野犬も街から姿を消した。それにともなって、道端で犬のふんを目にすることもほとんどなくなった。

「なんだかこのあたり、犬のふんが多い」と気づいたのは、家の近所で2度目か3度目に踏んでしまった後だった。仕事柄夜遅くなることが多いので、暗闇で足下に目がいかず、ついついやらかしてしまう。妙な感触にその場でしまったと思うこともあれば、帰宅後に玄関で気づくこともあった。近所にマナーの悪い犬の飼い主がいるに違いない、汚れた靴の掃除をしながらいつも悔しくて腹立たしい気持ちになった。

ある日、帰宅途中に電動車いすの老人が黒いラブラドールを連れて夜の散歩をしているのを見かけた。22時過ぎだっただろうか。小柄な老人は車いすのシートに埋もれてしまいそうで、その脇にそっと犬が寄り添っている。静かな信頼と愛情に満ちているように見える彼らとすれ違い数メートル進んだところで、歩道に、たった今用を足したばかりの犬の排泄物を見つけて、わたしは呆然とした。

こういうケースのことはあまり考えたことがなかった。あの小さな老人ではどう手を伸ばしたって犬の排泄物を片付けることはできないだろう。だったら、散歩中には用を足さないように犬をしつけるべきだろう。もしくはトイレの始末ができる人にも散歩に付き添ってもらうべきだろう。それができないなら犬を飼う資格はない……厳しいことを言われたとして、もっともだ。でも。

もちろん何もかもわたしの想像に過ぎないので、ただの考え過ぎなのかもしれない。それでも、もし他の方法がなくて、人通りのない夜に近所を散歩することが彼らの楽しみなのだとしたら。結局わたしは、より足下に注意を払って近所を歩くことにした。犬のふんを踏むのは腹立たしいけど、もはや踏んでしまったとして、原因である飼い主を恨む気にもなれない。できるのは自衛だけだ。

昨日の帰り道、また老人と犬を見かけた。そして今朝、駅に向かう途中、前方からランドセルを背負った子ども達が歩いてきた。彼らは、道路の脇に大きな犬のふんを見つけて騒ぎはじめる。「危ない!」「だめだよー、踏んじゃうよ。踏んだら汚いよー」。笑いながら、時々友達をその方向に押すような素振りでふざけてみたり、どこか楽しそうにも見える。彼らの狂騒は、わたしが子どもの頃とまったく変わりがないように見えた。