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メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

ヤコブへの手紙|クラウス・ハロ

映画のはなし

アキ・カウリスマキの描く不景気で彩度の低い町並みと仏頂面の人々、それがフィンランド映画に抱くイメージのほとんどすべてだった。映画は風景や人々の姿が舞台である国の印象そのものになってしまうくらい影響力の強いものだが、そういう意味では、「ヤコブへの手紙」を見たことで、わたしは今まで知らなかったフィンランドの一面に触れることができた。少なくとも山村の風景や建物をこんな風に美しく叙情的に撮ることを、カウリスマキはしない。

終身刑に服していたレイラは恩赦により出所するが行き場がなく、嫌々山奥に住むヤコブ牧師の元で手伝いをすることとなる。古い牧師館にひとりで暮らす盲目のヤコブ牧師は、悩める人々から日々届く手紙に返事を書き祈ることをつとめとしているが、手紙を代筆代読してくれていた近所の女性が亡くなったことにより、新たな補助者を求めているのだった。出所自体望んでいたわけではないレイラは、牧師が自分の恩赦を願い出たのだと思い「余計なお世話だった」と言い放ち、嫌々牧師の手紙に付き合う。毎日牧師宛に手紙を届ける郵便配達夫は、犯罪者であるレイラが善良なヤコブ牧師に危害を加えるのではないかと不審を募らす。

ほとんどの場面がヤコブ牧師とレイラ、そして郵便配達夫だけで進行する。舞台は、牧師の住む田舎の牧師館とその庭、教会くらい。上映時間が70分という、近年では珍しいくらい短い尺であることも含め、ぎりぎりまでそぎ落とされた作品だ。それはストーリーについても同じで、とりわけある事件を境に牧師に手紙が届かなくなって以降はひたすら「孤独と救済」だけが追い求められる。あまりに重苦しくストイックな描き方をするので、痛々しさに目を背けたくなる部分も。いかにも哀れな老人然としたヤコブ牧師、大柄でむすっとして一切表情を変えないレイラ、感情表現豊かで情に厚い配達夫、それぞれのキャラクターの対比も味わい深い。郵便配達夫が自転車で坂をのぼりながら「ヤコブ牧師、郵便ですよ〜!」と(フィンランド語で)歌うように呼びかける場面が繰り返し繰り返し挿入され、この声と画面を彩る美しい風景が、重苦しい孤独の映画の印象をやわらかくのどかなものにしてくれたのには、救われた。