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メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

サヴァイヴィング・ライフ 夢は第二の人生|ヤン・シュヴァンクマイエル

映画のはなし アートとかエンタメとか

人は夢を見る。必ず夢を見る。夢の中で過去の後悔と向き合い、救われるならば。救いを得たまま夢の中で生き続けたいだろうか、それとも救われた心だけを持って現実の世界に戻ってゆくのだろうか。

待ち望んでいたヤン・シュヴァンクマイエルの新作長編は、「今まで観たことのないシュヴァンクマイエル」だった。映画の冒頭、監督自らが画面に現れ「この映画は経費削減のために切り絵中心で作られています」と話しはじめる。これは「あまり笑えない『精神分析コメディー』」なのだと紹介し、そのまま映画は本編へ。

映像の面で新鮮だったのは、とにかく画面が平面的であること。手描きアニメというのは今までのシュヴァンクマイエル作品にはほとんど存在しなかったように記憶している。しかしこの作品では基本的に背景は手描き(たまに実写が混じる)、人物は、写真コラージュのコマ撮りメインで、手描きアニメ、実写が巧みに組み合わされている。今までは立体的なギミック、各種人形(人物に関してはクレイ)を多用していたシュヴァンクマイエルを思えば、かなり斬新な映像のつくりだった。

そして、映像以上に衝撃的だったのが、映画の内容。わたしは、シュヴァンクマイエルといえば、性欲や食欲、恐怖といった本能的なものを描く作家だと思っていた。ディスコミュニケーションについての作品は多いけれど、それも個人の感情として不和を描くのではなく、「人間というのは、わかりあうのが難しいものなのだよ」という思想があって、それを俯瞰的に登場人物に投影させているような印象を受けていた。登場人物はどこかぎこちなく人形じみて、感情移入の対象とならないのも、よい意味で彼の作品の特徴なのだと思っていた。だから、『サヴァイヴィング・ライフ』が夢という深層意識をのものをテーマとし、エディプスコンプレックスやマザーコンプレックス、トラウマといったものを扱いながらも、それをあくまで個人の物語に収束させた、とてもエモーショナルな作品になっていることに心から驚いたのだ。「シュヴァンクマイエルの描く人間に移入できる」という未知の体験に戸惑い、あまりに美しいラストシーンにぼうぜんとしたまま、エンドロールのあいだじゅう涙を流していた。まさかシュヴァンクマイエルの映画で泣くことがあろうとは、思っても見なかった。

夢診断を行うセラピストの助けを借りて、夢に託されたトラウマと向かい合ってゆく主人公、それと同時にどんどん夢の世界へ没頭し、妻や仕事といった実生活から離れてゆく。シュヴァンクマイエルの作品は今まで、そこに秘められた深層心理という文脈で解剖されるのにうってつけだった。抽象的で、シュールで、悪夢的で。しかしこの作品はその夢分析を逆手に取っている。作中でひとつひとつのエピソードを教科書通りの手法で分析して(おかげで今までの作品のように単純に、この作品をフロイト的な視点で語ることは難しくなっているだろう)、それをシニカルな笑いに変えている。女性精神科医が所見を述べ、それが持論に沿っていれば、壁にかけられた額縁の中のフロイトユングが笑う。ときに、フロイトの所見が支持されているのを見て、ユングが怒り、額縁の中から脚を出してフロイトを蹴飛ばす。逆にフロイトユングを殴り返したりもする。

QTで、シュヴァンクマイエルは言った。「これは、精神分析のシニカルなパロディです。人はだんだん夢というものを重視しなくなってきた、しかし、夢診断のおかげでまた人が夢と向き合うようになってきた。それは良いことだと思う。しかし、夢診断は面白いものではあるが、セラピーとして有効なものであるとは思います。なにしろ、夢の中で思い出せるのなんて、ほんのわずかな部分ですから(うろおぼえだけど主旨はこんな感じ)」。この言葉を聞いて、シュヴァンクマイエルが本当にひとりひとりの人間が持つイマジネーションを大切に思っていること、決して懸念したようなつまらない理由で精神分析をテーマにしたのではないことを確信して安心した。

いかにも青臭い「過去のトラウマと向かい合う」ストーリーを、これだけのキャリアを持つ監督がこの年になって扱うこと。その意味と結果出来上がったものについて、思うことはまだいろいろとある。しかし何より強く感じたのは、どれほど経験を重ねようと何歳になろうと、人はまだまだ新しいことにチャレンジできるのだということ。この次にシュヴァンクマイエルがどんな作品を撮るのか、楽しみでしかたない。