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メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

夜の訪問者

旅のはなし

ほとんど強行日程と言っていいマレーシア出張、その最後の晩のことだった。朝から夕方まで延々と移動&ミーティングの繰り返し。現地の人曰く「リフレッシュメント」とやらで、どこに行ってもお茶と軽食が出てくる(実際、マレーシアでは挨拶代わりに「ご飯食べた?」と聞き、彼らは1日に5〜6食食べるらしい)ため胃腸も疲れ気味だったので、水餃子で軽く夕食を済ませると、21時過ぎには部屋に戻った。

テレビのシネマチャンネルでは『英国王のスピーチ』。何度も観た映画をなんとなく見返しながら、風呂上がりのバスローブで、わたしはサイダーの瓶と格闘していた。中華屋でビールを少し飲んだだけで、なんだか物足りないので、近所で買ったリンゴ酒を飲もうと思い立ったのだが、部屋には栓抜きがない。ティースプーンをねじ込み蓋を開けようとしていると、ふと、ノックの音が聴こえた。

誰かがわたしの部屋の扉を叩いている。

怪しい。同行者なら(お互い部屋番号を控えているから)内線で電話してくるだろう。でも、万が一仕事の関係だとまずい。そっと、ドアを開けてみる。

インド系の小柄な中年女性が立っていた。

「部屋番号がわからないの」と言う。確かにそれは大変だ、けどわたしには何もしてあげられない。「レセプションに行って、聞いて来たらどうですか?」と答える。そもそもカードキーがないとエスカレーターは動かないはずだけど、彼女はどうやって18階まで上がってきたんだろう。他の客にまぎれてきたんだろうか。彼女は引き下がらず、「同じフロアに部屋を取っていて、夫がいるのは確かだ」と切々と訴えてくる。わたしにとっては「見知らぬ部屋をノックして助けを請う」ことより「レセプションに降りて行き部屋番号を確認する」方がはるかにハードルが低くかつ確実性の高い選択なのだけど、どうやら彼女にとっては違うらしい。民族性なのか、パーソナリティの問題なのか。

内線で、レセプションに彼女の部屋を聞いてやろうと思った。「ご主人のお名前は?」と聞く。彼女、答える。インド系の名前はわたしには難しくて、一度で覚えることはできない。うまく発音できるかもわからない。しばし悩んで、彼女を部屋に招き入れた。本当は、知らない人を部屋に入れちゃいけないってわかってる。もしかしたら強盗かもしれない。リスクがあるのはわかっていたけど、小柄だし、悪い人のようには見えないし、まあ大丈夫かな、と判断した。一応手荷物には気を遣いながら(そもそも現金もほとんど持っていなかったし)彼女を部屋に入れ、内線でレセプションに電話するよう勧める。番号がわからないという彼女のために、直通ボタンを押す。彼女はわたしにメモ帳とボールペンを押し付ける。聞き取った部屋番号を言うから、メモしろということらしい。彼女はわたしにも、レセプションの人間にも「ダーリン、ダーリン」と呼びかける。そういうものなんだろう。

何やらやり取りの後、彼女の言う通りにわたしは部屋番号を書き取る。嬉しそうに、メモを手に彼女が去る。わたしは再びサイダーの瓶との格闘を始め、ようやく蓋が開いた喜びとともにソファーに戻り、ふと気づく。先ほどのインド系女性は、わたしのベッドにハンドバッグを置きっぱなしにしている。

彼女の部屋番号はわかるから、届けようと思い部屋を出たところ、廊下に彼女を見つけた。バッグを忘れて途方に暮れて、でもわたしの部屋番号を忘れてしまって、片っ端から部屋をノックしている最中だった。バッグを渡すと、彼女は満面の笑みでわたしに抱きつき、盛んに「神のご加護」を祈った。そして、今度こそ完全に、おやすみを言って別れた。