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メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

「難しい小説」って、なんだっけ?

よしなし 本のはなし

埴谷雄高『死霊』を読みはじめている。少し前にKindle版が20%割引されていたので、つい買ってしまった。惑わされないつもりでいても割引というのは魅力的な制度で、そうでもなければ他にも手をつけるべき本は山ほどあるにも関わらず、あえて時間のかかりそうな『死霊』を優先しようとは思わなかったはず。

さて、この「奇書」と呼ばれる未完の大作がわたしに読みこなせるか。と考えたところでふと立ち止まる。

そもそも「読みこなす」って、どういうことだっけ。

世に言う「難しい小説」を読むとき、いつも考える。難解だとか哲学的だとか莫大な知識の集大成だとか、そんな煽り文句でとある小説群に何か特別に高尚で凡人にわかり得ないものであるかのようなレッテルを貼ることに意味はあるんだろうか。背後にある事象や思想への理解を裏づけにした読み方、複雑な構造を解きほぐしその美しさ巧みさに酔う読み方、いずれも正当な読書方法なんだろう。けれど、小説を読むという行為はそれだけではないはず。知識や経験を超えて「核心」に触れられることは、文学という表現方法の特権ではないんだっけ。その「核心」は目には見えないかもしれない、明確な形も持たないかもしれない。それでも触れることはある、確かに。小説の理解における「なんだかわからないけど凄い」に価値を見いだすことは反知性主義なんかではないはず。もちろん、ときには「わからない」ことそれ自体が「核心」ですらあるのかもしれない。

読書というのは何かを吸収する作業である一方、書物の種類によっては、読んだ側がどう受け止めたか(というより、読者に内在する何がどのように呼び起こされたか)という体験こそが重要で、誰かの心が揺り動かされたときにそれを「読み方が浅い」なんて言い切ることは他の誰にもできないはず。

「よくわからないけど、なんだか圧倒される」(文字や言葉はときに、ほとんど物理的な力なのではないかと思うくらいの圧力を持って迫ってくる)

「よくわからないけど、心が打ち抜かれるような、ばらばらになるような、体も心も空っぽになるようなフレーズに出会ってしまった」

これらは間違いなく「小説を読む」意義だし、その感覚を味わいたくてわたしは今も小説を読み続けているのだと思う

なんて言いつつ、小説を読んでいて「難しいなあ」と思うことはやっぱり多いし、小難しい記述をどうしようもなく後ろめたい気持ちで読み流すこともある。でも、その後ろめたさも含めた何もかもが「小説を読む」ことで、「わからない」に触れることの意味を、「わからない」を超えて触れる何かの存在を信じていたい。

死霊(1) (講談社文芸文庫)

死霊(1) (講談社文芸文庫)