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メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

本当のこととそうじゃないことの境目

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先日、トヨダヒトシさんのスライドショーを観る機会に恵まれた。

彼を知ったのは昨年の初夏。偶然ご一緒した人が、「写真を焼かずに、もっぱらスライドショーで上映する写真家」について熱く語っていた。「スライドショーが終わると、会場の人みんなぼーっとなって、女の子もみんなトヨダさん素敵―ってなっちゃうんだよ」という言葉に、わたしは反射的にフェロモンむんむんの写真家を思い浮かべた。だから、電話に応じて小一時間後に現れた彼を見たときには、少々面食らった。対談で「君を見た10人中9.8人くらいがお坊さんを思い浮かべる」と表現されていた、まさしくそんな感じ。

そして半年が経った。

90分のスライドショー。ナレーションもない。こういうのは、はじめての体験だった。カシャ、カシャ、と必ずしも規則正しくもなく(手作業だから)スライドが切り替わる音が薄闇に心地よい。NYの9.11にはじまり、彼の日常(両親。彼の母は患っている)、アーミッシュや禅寺の僧侶との邂逅。ときおり状況説明程度の単文が書かれたスライドが挟まれる。私小説ともドキュメンタリー映画とも違うけど、それは確かに彼の「私」を語るもの。

終了後の対談で、問いかけのひとつひとつに真剣に悩んで言葉を選ぶ姿が印象的だった。わたしは沈黙が苦手だから、人を目の前にすると一瞬の間すら埋めようと余計なことを考えもなしに、ときに思ってもいないことすら話しつづけてしまう(そしてたいてい後悔する)。質問に対してトヨダさんはときに数十秒も考えこむ。しばし考えたあとで趣旨のわからなかった質問には素直にそう言って、無理やり答えるようなことはしない。沈黙をおそれない人なのだと、うらやましく思った。彼の沈黙は居心地の悪いものではない。

「写真は怖い」という言葉は印象的だった。一瞬を切り取って、その一瞬に過剰に意味づけを与えてしまうことができる。その意味ははたして本当のことなのか。はっきりどういう言い方をしていたかは定かでないが、高校生だった頃に写真部の生徒から不意にカメラを向けられたトヨダさんは「これはすごく怖い」と思ったのだという。写真は人をだます凶器になりうる。その怖さを知った上で、彼は写真に向き合うことを選んだ。その怖さや他のいろいろな考えが合わさって、手回しのスライドショーという発表形態を選んだのだという。

一瞬であっても、切り取ることで何らかの意味づけがされてしまう。スライドショーにすることで写真一枚一枚の意味は薄れる一方、物語性は増す。一枚の写真はほんの数秒で、手作業での上映で、ある意味で即興的な手法(二度と同じ上映はあり得ない!)は、その即興性故に理解が受け手により委ねられる、気もする。でも、彼の作品からは彼のものの見方、社会の、世界の見方がとても強く伝わってくるから、やっぱりそのあたりの恐怖や葛藤とどのような折り合いをつけて/もしくはつけきれていないのかはよくわからない。いつかまた機会があれば、そのあたりは聞いてみたい。あのときは感情が揺さぶられていて、質問なんて思い浮かばなかったから。

こんなことをつらつら考えているさなかに森達也の『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』を読んで、これもまた、ドキュメンタリーを撮ることの暴力性を自覚し葛藤する独白がとても面白かったんだけど、その話はまたいつか。