メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

It's a beautiful day

母方の祖母を亡くしてちょうど2ヶ月後の3月9日、父が死んだ。肺がんによる急性呼吸不全。

血のつながりはないけれど、仲良しだった2人(のお骨、遺影、位牌)は、今実家の祭壇で仲良く並んでいる。皆が出かけているときも、おばあちゃんとパパは2人だから寂しくないね、と笑って実家を後にしたけれど、東京に帰る飛行機の中でわたしは寂しくてたまらなくなり、駅から家まで歩きながら涙が止まらなくなった。

昨日、一週間ぶりに出勤して弔電のお礼を言いに入った課長室で、わたしじゃなくて課長が泣いた。向かいの席の女性も、わたしの顔を見るなり泣いて、だからわたしは泣いちゃいけないんだと思った。悲しくないけど寂しくて、仕事を終えて帰り、駅から家までの道で毎日涙が出る。


父の家系に70にならず死んだ人はほとんどいないので、まさかこんなことになるとは思っていなかった。昨年の6月末、出張の直前に、父の肺に影があると連絡があった。

睡眠時無呼吸症候群でかかっていた病院で異常が見つかった。「結核か、間質性肺炎か、がんか」と言われ、検査に一ヶ月を要した。完治が見込める結核であればいいと神に祈る毎日だったけれど、結果はステージ4、手術も放射線も使えない肺がん。それが最初の絶望だった。その後DNA検査でイレッサ不適合であることがわかり、(イレッサ適合であれば、5年程度の延命が見込めた)2度目の絶望。元気そのものだと思っていた父の余命を「年内」と告げられ、それからの8ヶ月間は日々が不安との戦いだった。

最初の抗がん剤投与が終わった9月に帰省した。父母と姉と、施設の祖母を連れて食事に行って、高原で珈琲を飲んだ。そのときは、皆元気そのもので、まさか春になるまでに祖母と父を失うなんて、想像もできなかった。11月には両親と姉と4人で長野〜高山を旅した。高山にもう一度行きたいというのは父の望みだった。息切れする場面が目立ったけれど、父は楽しそうだった。何を食べても「味が薄い」とぼやくのをおかしいと思っていたけれど、それは抗がん剤の副作用のはじまりで、父は死ぬまで味覚障害と戦うことになった。食いしん坊な父だから、最後は薬をやめて、好きなものを好きなだけ美味しく食べさせてあげれば良かったというのは唯一の後悔。

1月9日に祖母が死んだ。東京で暮らす伯父は、喪主挨拶を務めたが、49日法要に帰ることは叶わなかった。彼もまたがんであることが判明したからだ。

父は再就職にあと1年の任期があったけれど、徐々に体が弱ってきて、現職死亡で迷惑はかけられないと、今年度での退職を決めた。咳が増え、息苦しさが増し、でも、伯父の代りに祖母の四十九日で務めた挨拶は実に素晴らしかった。父が人前で話すのを聞いたのははじめてだったから、驚いて「パパ上手いじゃん!」と、多分でも面と向かっては言えなかった。恥ずかしくて。父と同業者である姉は、父のいろいろな姿を知っていただろうけども、わたしが知る父は、家で横になってテレビばかり見ていて、母にやり込められている姿ばかりだったから、本当に驚いて、感心したんだった。

父の体は、冷たくなっても柔らかかった。火葬の寸前まで柔らかかった。棺に入る父の足に、はじめて靴下を履かせた。

決して若いとはいえない父の同期たちが、父の棺を抱える。父は、不器用だけれど、部下や若い人にはとことん優しかったのだという。職教育を担当する部署に3度配属されたので、たくさんの教え子が送りにきてくれた。

後悔はありません。ああすればよかった、というのは、どこまでいってもきりがないことで、わたしはわたしなりに、父との約35年間を十分充実した素晴らしい日々だと思っています。それでも寂しさだけはどうしようもない。

骨や脳に転移して、痛みに苦しみわたしたちのことがわからなくなり、やせ細ってチューブに繋がれて死んでいくのだと思って毎日怖かった。怖くてたまらなかった。でも父は、入院しないままだった。「普段どおりの生活がしたい」と、告知を受けたときに言った。その望みのまま、最後の日、自転車で散歩に行き、母と姉と夜は外食をして、その日(呼吸を楽に眠るために)買ってもらったばかりの寝椅子に嬉しそうに眠り、夜中に目覚めて好きなテレビを見た。朝方に目覚めてトイレに行き、ちょっと咳き込んで、一時間ほど後に起きた母が居間に降りると、息を引き取っていた。目を閉じて、安らかに、苦しんだ素振りもなく。

だから、「いい最期だった」「こんなに皆さんが来てくれて、美しい日だな」、そう思って、わたしは父を送ることができた。まだ、しばらくは寂しくてたまらないけれど。