読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

暴力のスイッチ、そして「逃げるが勝ち」ということ(5)

よしなし

(前のエントリーの続きです)

「きちんとした方ばかりなんだけど」

出勤して上司や同僚にこれまでの顛末を話し、生鮮食品がばらまかれた玄関ドア前の写真を見せた。その日は急ぎの仕事の他にどうしても欠席できない酒席の予定があり、職場を離れることができなかった。しかし、とりあえず家主と警察に相談だけでもしておいたのでは良いのではないかという話になった。

家主の連絡先がわからなかったので、入居時そして更新手続時にお世話になっている不動産屋に電話をかけた。電話を受けたスタッフの男性は突然の物騒な話に面食らっているようだった。まず言われたのが「現在そのマンションに住まわれている方で、うちが仲介したのはあなただけなので、他の部屋のことはわからないし連絡も取れないんです」。もちろん仲介業者に対処してもらえるとも思ってはいなかったので、家主からわたしに連絡するよう取りはからってもらうことにした。「とりあえず最近は刺されるような事件もあるし、物騒だから身の危険を感じたら躊躇せず110番してください」と言われ、電話を切った。

しばらくして家主から電話がかかってきた。一応法人名義にはなっているが、初老の男性が1人でいくつかの物件を所有管理しているようだった。状況を説明し「騒音の濡れ衣が原因だと思う」と伝えたが、「他の所有物件で過去に騒音トラブルがあったので、ずいぶん遮音性に配慮して建てたんですよ。そもそも3階の音が1階まで響くものかな……」と、その点については疑わしげだった。

原因はともかくトラブルが起きていることについては理解が得られ、家主からはまず、相手を特定しないかたちで住人に幅広に心当たりを聞いてみようかと提案された。とはいえ戸惑っているのは明白だった。家主にとってもこのようなトラブルは初めてなのだという。もちろんわたしだって初めてだ。どうしてもらうのがベストなのか皆目見当はつかない。とりあえず家主の提案に「お願いします」と答えた。

「会ったことはないけど、皆さんお勤めとか、きちんとした方ばかりに住んでもらっているんですけどねえ」ため息交じりにつぶやいた家主は、「まあ、お勤めがちゃんとしていることと中身は別の話なんでしょうけどね」と付け加えた。

案の定、警察のつれない電話対応

警察に相談するか否かは悩ましいところだった。調べたところ、いわゆる近隣トラブルに警察が介入するケースは、例えば深刻な脅迫行為があるとか、身体に危険を及ぼすような何かがあるとか、相当の長期にわたって異様な嫌がらせが続くとか(屎尿を何年間も玄関に撒き続けるといったもの)、相当に悪質かつ危険なものばかりであるようだ。わたしの場合は現時点でそこまでの危険はなさそうだし、誰がやったのかも正確にはわからない。いくらわたしが1A号室の住人を疑っていても証拠はないのだ。そもそもわたしは1A号室の住人の顔も名前も知らないし、男か女かも知らなかった(最終的に個人情報に触れない範囲で、とその人物が男性であることは明かされたが、この時点では部屋の前にばらまかれた生活感あふれる食品の数々から、わたしはてっきり犯人は女性だと思っていた)。

郵便受けにゴミを入れられたり、深夜にインターフォン鳴らされたり、玄関前に食品を撒かれたりしました。相手は誰だかわかりませんが、同じマンションの住人だと思います。……果たしてこれで警察が相手にしてくれるものだろうか。

とはいえ「何かあったときのために、相談記録残しておくだけでも違うよ」という警察関係者である親類のアドバイスもあって、昼休みに自宅を所管する警察署の生活安全課に電話をかけた。そして、予想はしていたこととはいえ、非常にがっかりした。

代表番号から回された生活安全課の警察官は、わたしが状況を話そうとするのを遮り「直接来てもらえないと、話は聞けません。いつ来られますか?」と言った。

「今日は仕事で身動き取れないんですけど、どうしても電話ではだめなんですか?」言い募るが、「来署しなければダメ」の一辺倒。多少遅い時間であっても来さえすれば対応できる、とは言われたがその日のわたしは夜遅くまで身動きが取れない。結局、次の日の午前中に警察署に出向くことにした。

警察官は一応わたしの「名字」を聞いた。相手の対応にむっとしながら「名字だけでいいんですか? 簡単な相談内容も、わたしの住所も電話番号も、一切お伝えしなくて良いのですか?」と念押ししたが「来てからでいいです」と言い切られた。そして、電話を切る直前「まあ、来ていただいたとき他にお客さんがたくさんいたら、出直してもらうこともあるかもしれませんが」と付け加えた。

親類知人に警察関係者が多いので、彼らの忙しさや権限の限界は理解しているつもりだ。緊急性の高い案件は山ほどあって、個人のささいな不安に取り合っていたら警察官が何万人いたって足りない。わかっていても、いざ我が身になれば、このときの対応はひどく冷たく頼りないものに思えた。ちなみにこの警官、実際に顔を合わせて話せば決して冷淡な印象は受けなかったし、案件の重さを鑑みても、彼自身にも警察組織自体に対しても恨みはない。

ただ、途方に暮れてしまった。

いい年して甘ちゃんもいいところだが、「家主」だろうが「警察」だろうが、誰かに相談すれば近隣トラブルなど魔法のように解決するのではないかと、心のどこかで軽く考えていたのかもしれない。しかし魔法はないし、他人などそんなに頼りにできるものでもない。最終的に自分の身を守るのは自分だけ。このときようやく「逃げた方が良いのかもしれない」という考えが生まれたのだった。

有り難くも悩ましい援軍

家主と警察の他に、この件をすぐに話さなければならない相手がいた。偶然にも母が長期の休暇を利用して半月ほど東京に滞在する、その到着日がこの日だったのだ。

人見知りで面倒くさがりのわたしと違い、母はアクティブかつ好戦的な人間だ。例えばレストランでサービスに不備を見つけると、事なかれ主義のわたしとは違って母はすぐに店員を呼ぶ。運転の荒い車を見かけると身を乗り出して相手を責めるような目で凝視する。逃げずに問題と向き合おうとする姿勢自体は尊敬するが、わざわざ危険な野良犬に目を合わせて歩くようなタイプかつ心配性な母を巻き込むのが嫌で、実は数週間前からわたしは憂鬱な気持ちでいた。

郵便受けの中にちらしが詰まっているだけなら、母は何も気づかないだろう。しかし、ベッドが一台しかない我が家に泊まる際、母は客用マットレスを敷いて床に寝る。下から床板を突き上げられた場合、わたし以上に敏感にそれを感じるだろう。かつて地方で一人暮らししていた頃、重低音を響かせる下の階の住人に切れた母(遊びに来ていた)が突如床を殴りつけたことを思い出すと気が重かった。気づかれたら大事になるーー、それをどうやって避けるかで悩んでいたのに、もはや心配なのはわたしがいない間に母の身に危険が及ばないかである。

母に簡単に状況を伝え、「玄関前に生鮮食品を撒くのは流石に異様。何があるかわからないのでマンションへの出入りの際は十分周囲に気をつけ、インターフォンも居室のチャイムも無視すること」を言い含めた。その日の昼過ぎにマンションに着いた母からは「とりあえず、その後異変はないみたい」という連絡があった。かつては過度に好戦的だった母だが、思ったより冷静な反応を見せているのは、寂しいが年を取ったということなのかもしれない。

その日の夜、わたしは外せない酒席に出席しており、しかも地下にある店は携帯電話の電波の入りが悪かった。22時過ぎに店を出たわたしのスマホには大量の不在着信と、母と(母から「連絡がつかない」と相談を受けた)姉からのLINEが一気に降り注いだ。慌てて電話を折り返すと、21時過ぎに共用玄関ではなく居室のチャイムが数度鳴らされたのだという。不安になった母はわたしに電話をかけるが、つながらない。母は、わたしが嫌がらせの犯人に拉致されてしまったのではないかと恐ろしくてしかたなかったのだという。心配しすぎだとは思うが、この件については配慮が足りなかったと反省している。

ちなみに居室のチャイムを押したのは家主だった。とりあえず関係していそうな部屋に話を聞こうと思ったが、なかなか帰ってこないようで(部屋の明かりがつかない)まだ会えていない、という報告をしてくれようとしたのだった。

23時過ぎにわたしが帰宅したとき、まだ1A号室には明かりがついていなかった。そして、幸いその晩は前夜のようにインターフォンが繰り返し鳴らされることも、廊下に大きな音が響くこともなかった。

「その晩」は。

 

(次のエントリーに続きます)