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メトロガール

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?

暴力のスイッチ、そして「逃げるが勝ち」ということ(6)

(前のエントリーの続きです)

そして、襲撃

翌朝6時。わたしはベッドで、母は床に敷いた客用マットレスで眠っていた。9月の夜明けはまだ早く、部屋の中はうっすら明るくなっていた。

何かが動く音がした。驚かせてはいけないと思ったわたしは眠る母をそっと起こして小さく「お母さん、起きて。来るよ」と声をかけた。間もなく掃除機が鳴り始める。ほぼ間髪を空けず、床に突き上げるようなドン、ドンという振動。母も驚いたように身を起こす。「平日は大体こんな感じだよ」と言った、そのときだった。

どこかのドアが開く音がした。

そして、数十秒。

誰かがわたしの部屋の玄関ドアを外側から全力で蹴った。

バーンというか、ガーンというか、男の力で全力で蹴りつけていると思しき激しい音は響き渡った。数度繰り返された蹴りは、ドアが破れるのではないかと危ぶむほどの強さだった。ドアを蹴る音はあまりに大きく、マンション全体に響き渡った。さすがにそれに驚いたのか、掃除機の音がぴたりと止む。それに続いてドアを蹴る音も止み、静けさが戻った。

ドアを蹴られた瞬間、母は身を起こして玄関に向かおうとした。本人曰くドアスコープで相手を見てやろうと思ったらしい。わたしは反射的に「動いちゃダメ」と言い、携帯を取りあげて110番しようかと考えた。しかし、迷っている間に掃除機の音が止み、ドアを蹴る音も止まってしまった。もう、現行犯にはならない。どうせこの後警察に行く予定になっているので、そこで一緒に話せば良いかと思い結局その時は通報を思いとどまった。

数ヶ月続いた地味で穏やかな嫌がらせから一転して「生鮮食品のばらまき」、そしてドアへの強烈な蹴り。スイッチが入ってしまったんだ、と思った。じわじわと蓄積していた彼の怒りを暴力に向けるスイッチを、何かの拍子にわたしは押してしまった。振り返れば「バナナの皮を投げ込み返す」という衝動的な報復行為こそがそのスイッチだったのだろう。

そういうわけで、もしも今現在似たような嫌がらせに悩んでいる方がいたら、いくらカッとしたからといって仕返しをすることはお勧めしない。もちろんあなたが多少の暴力などものともしない屈強な人物であれば話は別だが(会社の後輩は「そういえば僕、学生時代に玄関の新聞受けからゲロ入れられたのでその場で捕まえて警察に突き出しました」と語った。なかなか真似できることではない)、それでも万が一刃物でも出されたらどうしようもないので、やはり暴力を以て向かってくる相手に正面から対峙するのは良い方法とはいえないだろう。

とりあえず「相談記録」、避難の検討へ

職場に遅刻する旨を連絡し、所轄の警察署へ向かった。この日は平日だったが翌日は休日。玄関のドア一枚しか隔てていない場所での暴力行為にはさすがに怯え、わたしはマンションから退去する意志を固めていた。例え犯人がわかったとして、例え掃除機の主が今朝の音に驚いて自重するようになったとして、ああいう行為に出る人間が扉のすぐ外にいる環境で落ち着いて生活できる気はしなかった。

警察署で対応してくれたのは、先日電話でつれない対応をした警察官だった。わたしが電話口で不満気だったことには気づいていたのだろう。「すみません、やっぱり直接話を聞かないとわからないことが多いので」と頭を下げた。

結論から言えば、やはりこの程度で警察に対処してもらうことは難しい。相談記録ということで経緯をを残してもらうだけだった。例えば交番のパトロールコースに入れてもらうとか、相手がいそうな時間(夜など)にマンションの前に少しパトカーを止めて赤色灯を回すとか、それだけでも良かったのだが、どれもやんわり断られてしまう。いわく「パトロールしても相手が見てるとは限らないし」「逆に警察が介入すると凶暴化するタイプもいる」。前者はともかく、後者は確かにそういうこともあり得る。しかも、いくら警官が回ってくれても相手はオートロックの内側にいるのである。

ずいぶん前に江東区で、男が同じマンションに住むOLを「性奴隷」にする目的で自室に連れ込み、殺害した挙げ句切り刻んで遺棄する事件があった。そのときも思ったのだが、オートロックというのはマンション外部の危険人物に対しては威力を発揮するものの、内側の人間に悪意をもたれた場合はむしろ「危険な密室」を作り出す。いざ事件が起こらない限り、警察はオートロックの内側までは入れない。

本当にこういうのはケースバイケースで、と警官も悩ましげだった。状況次第、相手次第で何がスイッチになるかわからない。ストーカーも同じだが、一定以上にエスカレートしないケースがほとんどである一方、ふとした拍子に刃物が出てくることもある。「引っ越しも考えていて」と言うと、「金銭的な負担も大きいので簡単に勧めるわけにはいかないが、現実的に一番確実なのは、逃げることです」とのこと。確かに、ストーカーやDVのように個人に執着があるのであれば、逃げても追いかけられる心配があるが、わたしの場合は単に「早朝に掃除機をかける憎い上階の住人(誤解だが)」として攻撃されているにすぎない。退去しさえすれば、もしかしたら対象者が別の住人に移るかもしれないが、少なくともわたしへの攻撃はなくなる。

「何かあったらすぐ110番してくださいね」

結局その日得られた具体的なアドバイスはこれだけだった。

その後家主から「あなたの部屋の当たりだけでも防犯カメラつけましょうか」と提案された。見張られているようで嫌だという住人も多いことから、共用部に防犯カメラを設置するハードルはなかなか高いようだ。提案はありがたく受け止めつつ「家主さんにお任せします」と答えた。退去することも考えているので、わたし一人のためにお金をかけて防犯カメラをつけてもらって、すぐに引っ越すのでは申し訳ないと思ったのだ。

Facebookに投稿した現状を知り、数人の友人が「うちに避難しておいで」と声をかけてくれたのは、涙が出るほど嬉しかった。しかし母までまとめて世話になるわけにもいかないので、実家に残っている姉と相談して翌日からとりあえず3泊、ホテルを確保した。なぜその日からにしなかったかというと、翌日が祝日だったからである。経験上、土日祝日の朝は3B号室の住人は掃除機をかけない。1A号室の住人はなかなか律儀で、基本的に天井を突き上げてくるのは早朝に掃除機の音がした場合のみである。日常的な生活音に対して攻撃性を示すことはなかった。

その日の夜遅い時間まで、わたしはネットで物件を探していた。ここ3日間を振り返り、「早く引っ越さなきゃ。明日、物件を決めなきゃ」という重いが強くなっていた。

わたしはこれまで暮らした部屋を、どれも1日、不動産屋1件で決めていた。基本的に引っ越しが嫌いで、物件探しは遠方に引っ越す場合に限られていた。そうすると物件探しのために事前に現地に足を運べるのは一度のみ。そもそも「たくさん見ても迷うだけ」という気持ちもあり、一般的な「良い物件を探すには時間をかけることが必要」という鉄則とはかけ離れた物件探しばかり繰り返してきた。そして、同じ都内での引っ越しにも関わらず、今回も超特急で物件を探す羽目になったのである。

 

(次のエントリーに続きます)